日時:2006年11月19日(日) 10:30-12:30
会場:東京外国語大学府中キャンパス212教室
*発表はそれぞれ40分(質疑応答含む)です。
・岡部宗吉(京都大学大学院) ヴィンチェンツォ・ガリレイのモノディ実験作品とその周辺:ダンテ・ラメント・ジェンダー
・恩地元子(東京芸術大学非常勤) 足音を聴くこと:身体の博物誌のための一試論
【司会】長木誠司(東京大学)
岡部宗吉(京都大学大学院)
ヴィンチェンツォ・ガリレイのモノディ実験作品とその周辺:ダンテ・ラメント・ジェンダー
16世紀後半にフィレンツェで活躍した音楽家ヴィンチェンツォ・ガリレイは、著書『古代と現代の音楽に関する対話』(1581)において、古代ギリシア音楽の復興を目指し、後に「モノディ」と呼ばれる独唱歌を提唱したことで知られる。そして、その理念に基づき、ダンテ『神曲』「地獄篇」からウゴリーノ伯の嘆きに作曲し歌ったと伝えられている。しかし、この作品は、楽譜が現存せず、ごくわずかな当時の記録から察するに、好評を博したとは考えがたい。本発表では、ガリレイが選んだテクストに注目し、同時代のダンテ受容との関わりや、続く世代のモンテヴェルディの仕事に照らして、この試みの文化的な背景と意義を考察する。
ダンテを歌詞とする楽曲は当時数少なく、とりわけウゴリーノ伯の嘆きへの作曲はきわめて異例である。ガリレイの作品が成功しなかったであろうことは、詞の凄惨な内容やダンテに与えられていた否定的評価から推察できるが、「嘆き(ラメント)」を歌うのが男性であることも問題含みだったのではないか。実際、ガリレイの著作に時折見られる、ジェンダーによる比喩表現からは、彼が当時の「女性論争」に無関心ではなかったことがうかがえる。ガリレイのモノディ実験作品は、近年フェミニズム音楽学者によって活発に論じられている、音楽劇におけるジェンダーの表現に関するモンテヴェルディの試行錯誤を予告するものでもあったと私は考える。
恩地元子(東京芸術大学非常勤)
足音を聴くこと:身体の博物誌のための一試論
本発表は、文化のリソースとしての身体の可能性について、一般には、顔や手よりも鈍感で表現力に乏しく、ときには貶められさえする<あし>(足/脚)に焦点を当てて論じる研究の一環として、聴覚との関わりを扱うものである。楽譜のような視覚的なコードに定位することが困難な足音は、通常、「そういえば、足音がしていた」という程度に意識されるか、あるいは、マンガなどにおける誇張された擬音の表現によって初めて気づかされるものであるが、それが、どのような局面において、表象として聴かれるようになるのかを、様々な芸術分野を参照しながら分析する。映画、アニメーションなどにおいて歩行は、動作主(人間とは限らない)、あるいはその状態を明示することが多いが、明示し得ないことに意味がある場合もある。実演芸術(タップ・ダンス、フラメンコ、アイリッシュ・ダンス、能、歌舞伎など)において、地面を踏み鳴らす行為を微細に聴き分けてみれば、<あし>のテクノロジーの諸相をかいま見ることができよう。視覚の支配によって覆い隠されていた足音の資源性を明らかにすることは、身体の知としての<あし>の本性に、光を当てることになるだろう。さらには、日常的な歩行において足音を意識させる契機となる建築物に注目することにより、足音を聴くことから可能になる、世界とのもうひとつの関わり方を提案したい。複数の領域から、口頭発表に適した事例を選ぶ予定である。