2024年7月7日(日)13:45-15:45
H号館 H302

・「どうして子どもなんて」に対する応答──『夏物語』における死と生の連鎖/安保夏絵(中部大学)
・尾辻克彦「父が消えた」におけるテクスト内写真制作について/五十嵐千夏(北海道大学)
・ジョン・バージャー、ジャン・モア『七番目の男』と逃走の権利/田尻歩(東京理科大学)
【司会】佐藤守弘(同志社大学)


「どうして子どもなんて」に対する応答──『夏物語』における死と生の連鎖/安保夏絵(中部大学)

 本発表では、川上未映子の『夏物語』(2019年)を取り上げる。主人公である夏子が、なぜ非配偶者間人工受精(AID)を利用してでも自分の血の繋がりのある存在を求め、さらに「どうして子どもなんて」産もうとするのかという問いについて考えたい。
 この問いに対する答えを明確にするために、AIDの結果産まれた善百合子の反出生主義的な思想を参考にする。百合子は夏子に対して、子を産むことは「賭け」ではないのか、出産は夏子の欲望に過ぎないのではないかと問いかける。そこでさらに着目したいのは、夏子の出産願望と百合子の反出生主義的な思想の対立ではなく、百合子の意見を受け止める夏子の姿勢である。たとえば、夏子は出産を望むことにより反出生主義に抗うような行動を取りながらも、「生まれてこなければ良かった」と思い続ける「子ども」のままの百合子の声を聴こうとする。
 以上の推論から、結論として、夏子は男性と結婚して子を出産するというジェンダー規範に従った異性愛者の立場にいながらも、反出生主義的な思想を拒んでいないとまとめる。その反出生主義的な思想を持つ百合子との出会いをきっかけに、夏子は貧困問題を抱える「笑橋」の人々の生きる意味や、AIDを選択肢に入れているような同性愛者たちが子を持つことの意味も見出そうとしている。最終的に、夏子は「どうして子どもなんて」という問いかけに絶えず悩みつつも、子を産むことの意味/無意味を受けとめている存在だとまとめたい。

尾辻克彦「父が消えた」におけるテクスト内写真制作について/五十嵐千夏(北海道大学)

 芸術家・赤瀬川原平(1937-2014)が尾辻克彦の筆名で発表した短編小説「父が消えた」(1980年12月)は、語り手にとって身近な人物の重病/死という主題、写真撮影や遺影モチーフの頻用において、約半年前に発表された連作短編「牡蠣の季節」(同年5月)と「冷蔵庫」(同年6月)との連関が指摘できる。これらの作品は、旧友の病や父の死という経験の解釈過程を語り手の独白や会話で表しながら、語り手を含む登場人物に発言や記述といった言語表現の遂行をしばしば成就させないことで、言語表現の行き詰まりをも書き込んでいる。しかしここで注意すべきなのは、言葉の空白を補填するように、写真のモチーフや写真撮影・加工の手つきが作品全編に点在していることである。
 本発表は、三作品のうち最後に執筆・発表された「父が消えた」を主な対象に、身近な人々の病や死に対して同作の語りが編み出している、写真制作の手法を交えた独自の制作的アプローチを考究する。作業としてはまず、尾辻作品の技法上の特徴として知られる比喩の用法を手掛かりに、小説からずれた位置にあるもう一つの制作手法として、作中に読み取れる写真制作の手つきを指摘する。そのうえで、三作品の主題にとって最も象徴的なモチーフ・遺影が、海の香り、化学物質による体質変化などの各作品に共有された要素の作用によって、テクスト上で作り変えられてゆく過程を明らかにする。

ジョン・バージャー、ジャン・モア『七番目の男』と逃走の権利/田尻歩(東京理科大学)

 本発表は、イギリス出身の作家ジョン・バージャーが文章を、スイス出身の写真家ジャン・モアが写真を担当したドキュメンタリー作品『第七の男A Seventh Man』(1975)における移民の主体性の描かれ方に焦点を当てる。
 1950年代にはマルクス主義的な立場からの芸術批評で論争を巻き起こしていたバージャーは、60年代半ばから反帝国主義・脱植民地化の国際的な運動への共感を強めていった。ヨーロッパにおける移民の経験を主題とする『第七の男』は、この問題関心の延長線上に作られている。ドキュメンタリーとフィクションを混ぜ合わせ、移民の個人的経験とその経験を条件づける客観的状況の記述を並置する文章は、モアの写真と合わさり、異種混交的で複雑なモンタージュを成している。
 政治理論家サンドロ・メッザードラは、資本主義は一方で労働者の移動性の制限を至上命題とするが、他方で資本主義的な規範の拒否や逃走といった実践に直面するため、移民たちの移動は構造的な過剰性・自律性を持つと論じ、主体的実践や欲望の側から移民たちを考える視点の重要性を強調した。本発表はこの見方を援用し、複雑な芸術形式によってしか可能でないかたちで資本主義における男性移民労働者の主体性の生産プロセスを表象したドキュメンタリー写真作品として『第七の男』を分析する。その際、小説『G.』でのブッカー賞受賞スピーチやバージャーの黒人知識人・活動家との交流関係、当時の社会状況から作品を文脈化する。