2024 年7月7日(日)10:00-12:00
H号館 H201
・ポスト・メディウム的状況において芸術作品の「フォルム」をどのように記述するのか──マリリン・ストラザーンによる人類学的な記述の再概念化/藤田周(東京外国語大学)
・音声というメディア——言語的意味の伝達に「失敗」するとき/堀内彩虹(早稲田大学)
・コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の検討──「タスク」概念を通して/藤堂寛子(信州大学)
【司会】大橋完太郎(神戸大学)
ポスト・メディウム的状況において芸術作品の「フォルム」をどのように記述するのか──マリリン・ストラザーンによる人類学的な記述の再概念化/藤田周(東京外国語大学)
本発表は芸術作品の「フォルム」(form/forme)をどのように判断するかという問いについて、人類学者マリリン・ストラザーンの『部分的つながり』(2004年)をもとに考察する。
現代アートにおけるメディウムの多様化にもかかわらず、そして「フォルム」という概念によって作品の構成要素や作品の構造などのうち何を指示するかについて同意がないにもかかわらず、作品分析における「フォルム」の重要性は失われていない。ニコラ・ブリオーやクレア・ビショップ、ジャック・ランシエールといった批評家は関係性の美学の代表例とされる作品について、互いに他が作品の要素を十分に論じていないと述べた上で、その構造について自身の主張を展開する。
しかし奇妙なことに、三者はそうした作品の要素が何であるか異なる見解を持ちながら、それらの要素にもとづくはずの構造が社会関係に関わることには同意している。似た事態は永田康祐の《Audio Guide》(2019年-)でも生じている。これは平面作品や古地図、3DCGといった展⽰物と、それらに付帯するオーディオガイドからなるインスタレーションだが、その展示物は視覚的性質だけでなくそれらが由来する文脈から意味を得ているので、記述すべき要素は際限なく広がるようでもある。だがおそらく、観客はその構造が視覚の構築に関わると理解できるだろう。では、作品の「フォルム」──要素であれ構造であれ──についていかに考えるべきなのか。
これと類似した問い、つまり人類学者は現象をいかに記述すべきかという問題を検討したのが、ストラザーンの『部分的つながり』である。本発表は、同書が論じたメラネシア的な「フォルム」の概念化について考察し、それをもとに《Audio Guide》を考えることで、「フォルム」の記述のための枠組みを提起する。
音声というメディア──言語的意味の伝達に「失敗」するとき/堀内彩虹(早稲田大学)
人が声で何かを伝えるとき、発せられた内容がその言語的意味とは異なる意味として解釈されることがある。例えば、しばらく体調をくずしていた友人に会った人が友人に向かって「大丈夫?」とたずねたとき、友人は「大丈夫」と答えたものの、その人は友人の声の現れから友人の体調はまだよくないようだと判断する場面が挙げられる。この例では、音声を通じて表された言語的意味内容がその音声自体によって解体され、別の意味解釈の可能性が生みだされているようにみえる。このとき、声はいったい何を伝えているのだろうか。
本発表は、前述のような日常の発話の例を言語的意味の伝達の「失敗」と位置づけ、音声の何が伝達を「失敗」へ導くのかを身体の「患い」を手がかりとしながら身体とその音の関係から考える。エセキエル・ディ・パオロは、言語行為をエナクティヴな視点から論じるなかで、言語の音がその物質性ゆえに解釈において開放性をもつと述べる。本発表は、言語のエナクティヴ研究に依拠にしつつ、音声はその生成において身体と強い結びつきをもつために発声者の身体との関係において理解されがちだが、聴き手も発声する経験をもつ場合、伝達される意味の解釈においては聴き手の身体が強く関与すると論を展開する。本発表を通じて、不安定な意味の境界にたつ音声の聴取において「患い」の音が、音声の言語的意味解釈の可能性を退け、その音の記号論的解釈を聴き手の身体上の意味へとひらいていくことを明らかにしたい。
コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の検討──「タスク」概念を通して/藤堂寛子(信州大学)
「コンテンポラリー・ダンス」という名称が人口に膾炙するようになってから久しいが、そもそも定義されることそれ自体を否定するといってもよいこのジャンルにおいて、古典的な様式の代表であるクラシック・バレエの諸要素が利用されることは珍しいことではない。
西洋劇場舞踊において何を「クラシック」として名指すのかについては厳密に画定されてはおらず、16〜18世紀にかけて成立した規律を基盤とし、18世紀ノヴェールらの「バレエ・ダクシオン(ballet d’action)」によるナラティヴ、19世紀ロマンティック・バレエ、そしてマリウス・プティパによるコード化を経たいわゆる「クラシック・バレエ」と、20世紀のジョージ・バランシンやジョン・ノイマイヤーらによる「ネオ・クラシック」、そしてヴィジュアル・アートなど他分野との垣根が曖昧になったコンテンポラリー・ダンス内でクラシック・バレエの要素が利用される場合などが混在している状態であるといってよい。
本発表では上記のうち、コンテンポラリー・ダンス内で利用されるクラシック・バレエに焦点を絞り、これを分析するための補助線として、1960年代以降にムーヴメントを誘発するための装置として利用されるようになった「タスク」の概念に着目したい。そして特にウィリアム・フォーサイスによるクラシック利用の検討から出発することで、コンテンポラリー・ダンスの文脈におけるクラシシズム利用の一端について読解を試みたい。