2023年7月9日(日)14:00-16:00
Komcee East 2階 K211

・新派と新劇の交差──『復活』と『カチューシャ』を繋ぐ女性の「声」について/谷口紀枝(早稲田大学)
・ヒロインたちはなぜ死ぬのか──『にごりえ』『虞美人草』『金色夜叉』とその脚色/中村ともえ(静岡大学)
・コロナ禍下における劇団新派『八つ墓村』の変奏と展開/後藤隆基(立教大学)
【コメンテイター】木下千花(京都大学)
【司会】小川佐和子(北海道大学)

 新派とは、狭義には歌舞伎(旧派)に対置される新たな演劇ジャンルとして明治時代に興り、大正から昭和にかけて隆盛した新派劇のことを指す。新派は同時代の世相を反映した現代劇として大衆に人気を博し、この類型は、新派劇の演目を引き継ぐ形で、旧劇映画(後の時代劇映画)と並ぶ現代劇映画のジャンルとして展開された。
 新派というジャンルは、従来の演劇史においてはその通俗性から研究対象として等閑視され、映画史においては日本映画の後進性を示す類型として位置付けられてきた。本パネルでは、〈新派〉という概念を演劇・映画、また文学をつなぐ場として捉えなおし、新しさと旧さの入り混じった〈新派〉的な感性の広がりを草創期から現代にかけて再検討することが目的である。人物の情動や場面に漂う情緒を声や歌などを介して増幅し、観客の心性に働きかける新派は、近代の大衆の記憶装置となっていた。
 谷口は、大正時代の代表的な新派映画である『カチューシャ』を取り上げ、女性の「声」の役割に注目し、その受容を考察する。中村は、文学における「新派的なるもの」を脚色から照射し、原作である小説と演劇・映画が、結婚という問題をめぐって生起するヒロインの受苦、特にヒロインの死という結末をどのように表象してきたか、複数の事例をもとに考察する。後藤は新派劇のオルタナティヴな水脈である探偵劇を対象に、「朗読」等による脚色の変遷を検討するとともに、新派というジャンルの現在地を位置付ける。
 以上のように本パネルは新派の多様性を領域横断的に検討しつつ、新派の歴史と現在、さらに未来への期待にも議論を展開していく。


新派と新劇の交差──『復活』と『カチューシャ』を繋ぐ女性の「声」について/谷口紀枝(早稲田大学)

 新派映画は、同時代の現代劇を意味する映画の類型の一つであり、明治時代末から大正時代にかけ、新派演劇が引き写されることで発達した。新派演劇は、明治20年代に書生芝居から起こった演劇で、旧劇=歌舞伎に対し、同時代を描いた新演劇=新派=現代劇と呼ばれたものであるが、歌舞伎の形態を真似ることに始まった所以で、女性の役は男性が演じる女形が採用された。そしてこの経緯で新派映画においては、女性を主人公としながらも、女性役は女形により演じられ、上映の際には、男性弁士の声が添えられるという女性不在の形態が長らく続いた。
 そうした中、新劇界から女性の身体と声を持った女優・松井須磨子が誕生する。大正3年(1914)、松井主演で上演された、レフ・トルストイ原作の『復活』と、劇中歌「カチューシャの唄」は、新派的であると揶揄されながらも芸術座の代表作となり、日本を縦断する巡業公演とレコードの普及により、全国の津々浦々まで伝搬し、その歌唱は日本中に轟いた。
 本発表では、偶然か必然か、それまで距離を保っていた新劇と新派が交差した舞台劇『復活』と映画『カチューシャ』を取り上げ、松井演じるヒロインに〈新しい女〉を感じ、共鳴する人々が、女形俳優・立花貞二郎主演の『カチューシャ』を取り込みつつ受容していく過程を考察する。そこには、両作品を繋ぐ役割を果たした劇中歌があり、上映館に響いた女性の「声」が存在した。

ヒロインたちはなぜ死ぬのか──『にごりえ』『虞美人草』『金色夜叉』とその脚色/中村ともえ(静岡大学)

 新派劇・新派映画の代表的な作品は小説を原作とするが、演劇・映画と違い、文学の領域では「新派」という語は用いられない。たとえば『己が罪』『乳姉妹』(菊池幽芳)や『不如帰』(徳冨蘆花)は文学史では「家庭小説」に分類される。だが『義血侠血』(泉鏡花)や『虞美人草』(夏目漱石)など同様に新派劇・新派映画の原作になった作品はこれに収まらず、演劇・映画の側から原作となった小説を捉え返す新たな枠組みが必要である。
 そこで有効だと思われるのが、映画研究者の斉藤綾子が提唱する「新派的なるもの」という理論的概念である(「新派的なるもの ある考察」『新派映画の系譜学』2023、森話社)。斉藤は、脚色の過程で物語はしばしば変容するものの、新派的な物語叙述・表現様式の中心には女性の身体が位置するとして、悲劇の負荷がヒロインにかかることを指摘している。
 本発表では、既に検証した『にごりえ』の脚色史を踏まえつつ(「ヒロインの死を悼むのは誰か 樋口一葉作『にごりえ』とその脚色」『新派映画の系譜学』)、『虞美人草』と『金色夜叉』(尾崎紅葉)のヒロインの死という結末を分析する。『金色夜叉』は、小説は未完だが、主人公の夢の中でヒロインが死に、幾つかの脚色ではこれが結末として採用されている。発表では、小説におけるヒロインの死がどのように表象され、そこに何が託されているのか、複数の脚色を参照しながら考察する。

コロナ禍下における劇団新派『八つ墓村』の変奏と展開/後藤隆基(立教大学)

 劇団新派の横溝正史原作『八つ墓村』(齋藤雅文脚色・演出、新橋演舞場)は、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の影響で、2020年2月26日に当時の安倍晋三首相が発表した全国的な大規模イベントの自粛要請を受けて中止を余儀なくされた。
 以降、新派は『八つ墓村』の大阪松竹座公演に加え、この年の本公演がすべて中止になった。2021年10月には新橋演舞場での本公演が叶うが、2022年の本公演は皆無。新派は今、ジャンルとしての存亡の秋を迎えているといってもいい。
 本発表では、コロナ禍のなかで新派というジャンルがいかに生き延びる方途を摸索したかの一例として、『八つ墓村』を基盤とする表現の変奏と展開について考察する。
 コロナ禍による自粛期間中、『八つ墓村』で里村典子を演じた鴫原桂が、事件から3年後に金田一耕助が八つ墓村に戻ってくる設定のスピンオフ作品『典子の八つ墓日記』を創案(齋藤雅文作・演出)。独り語りのオーディオドラマとして配信した。その後、齋藤が劇団内ユニット「新派の子」を立ち上げて特別公演(六行会ホール)を行った際、『典子の八つ墓日記』を基にした『八つ墓供養』(齋藤雅文作・演出)がその劈頭を飾った。
 新派はコロナ禍のなかで「朗読」という方法を多く試みるが、2020年の初期段階における「声」の表象の一環であり、連続性をもった作品のアダプテーションでもある一連の『八つ墓村』物を通して、新派というジャンルの現在地を検討してみたい。