2022年11月13日(日)
午後16:00〜18:00
- 「象徴するものを象徴されるものそれ自体にする」──ヴァルター・ベンヤミンにおける星座−布置の前駆形態としての象徴的連関/髙田翔
- 「空間の生産」とユートピア的・ヘテロトピア的身体──ルフェーヴルとフーコー/上田由至(筑波大学)
- 前期デリダにおける〈言おうとすること〉と〈書こうとすること〉──現象学と批評を架橋するもの/森脇透青(京都大学)
司会:宮崎裕助(専修大学)
「象徴するものを象徴されるものそれ自体にする」──ヴァルター・ベンヤミンにおける星座−布置の前駆形態としての象徴的連関/髙田翔
ヴァルター・ベンヤミン研究において象徴概念は、対概念とされる寓意(アレゴリー)に対してほぼ一貫して劣位に置かれてきた。
国内外問わず支配的であり続けてきたのは、寓意(アレゴリー)は象徴によって維持される全体性を断片化する鍵概念だが、対する象徴についてはベンヤミン自身が定義を可能とする明確な意味付けを断念したため、一貫した理解は不可能(Menninghaus,1986など)という見解である。
こうした見解を暗黙の前提に、研究史上、主著『ドイツ悲劇の根源』(1925)の序文「認識批判的序章」において提出されるベンヤミンの全思考の珠玉、真理のシステムたる星座-布置(Konstellation)もまた、『ドイツ悲劇の根源』本論の主題である寓意(アレゴリー)と密接な関係があると想定され、理解されてきた。
だが「認識批判的序章」にははっきりと、星座-布置を構想する「哲学者の本分」は「言葉における象徴的性格」の回復だと記され、若きベンヤミンはすでに1917年には「哲学とは、言語としての体系的象徴的連関(symbolischer Zusammenhang)の中で演繹された絶対的経験」と謎めいたメモを残している。
発表ではまず、時系列順に作品を追い、象徴への言及の一貫性を確認する中で、この「象徴的連関」に対応する記述を各主要著作の核心部分に見いだす。それを通じて、芸術作品において、原像(Urbild)と呼ばれるイデア的な真理の断片に従属していた、経験的な仮象(Schein)である言語が、この従属関係から離れ、相互に象徴を介して作用しあうことで真理を独立して再構成する──すなわち「象徴するものを象徴されるもの自体にする」、ある種のプラトニズムの転倒の試みとしての、この謎めいた「象徴的連関」の基本的性格を素描する。
その後、象徴への着目により明確化されうる以下三点から、象徴理論の哲学的特異さを彫刻し、星座-布置の理解への準備を整える。
①異なる認識作用である知覚と聴き取り(das Vernehmen)が、中間休止(Cäsur)と呼ばれる断絶を通じて、切断されるのでなく接続されるとする能力論
②初期の科学認識論から密かに継承された体系と潜在的な(virtuell)ものについての議論
③芸術作品に内包された、経験した当人すら忘却した記憶が、批評をつうじて他者によって想起され、真理へ組み込まれるという、真理と人間の具体的経験の結節点
最後に、象徴的連関の発展形に星座-布置を据えて初めて可能となる「認識批判的序章」の包括的理解の提示と、ドイツ悲劇本論における寓意(アレゴリー)と象徴の関係の、より大きな枠組みをつうじた再定義を図る。
「空間の生産」とユートピア的・ヘテロトピア的身体──ルフェーヴルとフーコー/上田由至(筑波大学)
アンリ・ルフェーヴルの『空間の生産』(1974)をはじめとした空間論とミシェル・フーコーの「他者の場所」(1984)等で示された「ヘテロトピア」の概念は、今日において空間を論じる際の重要な参照項である。前者は物質的空間と心的空間という従来の二項対立的な空間概念を批判し「社会空間」概念を導入しつつ、空間は所与ではなく生産されるものであると主張して空間論を刷新した。後者は多岐にわたる形態の空間を包括する異種混淆的な概念であるが、それは「他なる空間」であるという共通点を持つ。
ルフェーヴルは空間と身体を相互につくり/つくられるものであるとし、その関係の重要性を指摘したが、上記二人の思想家をともに論じる先行研究(加藤政洋、Naglaa Saad M. Hassan等)ではその関係についての検討は不十分なまま残されている。たとえば、空間の「脱身体化」decorporealization(Derek Gregory)を批判するルフェーヴルが従来的な抑圧(疎外)/抵抗の二項対立を反復しているように思われる一方で、フーコーにおいては空間の生産や創造といった契機に重きは置かれないものの、ヘテロトピアと身体はより動的な関係をもつだろう。本発表ではフーコーの1966年のラジオ講演「ユートピア的身体」(2009)等も踏まえて、両者の空間‐身体論におけるこのような差異および類似点を抽出し、両者の相補性を導出することを目指す。これにより、空間の生産におけるより複雑な権力と抵抗の関係を探究することが可能になるのではないだろうか。
前期デリダにおける〈言おうとすること〉と〈書こうとすること〉──現象学と批評を架橋するもの/森脇透青(京都大学)
ジャック・デリダが『声と現象』(1967)で、フッサール『論理学研究』(1900)における表現/指標の区分について議論し、その区分を掘り崩そうと試みたことはよく知られている。この際、デリダはフッサールの「意味(Bedeutung)」概念を〈言おうとすること〉(vouloir-dire)と訳し、批判的に検討した。一方、あまり注目されていないが、『声と現象』に先立って書かれた「力と意味作用」(1963年初出)においてデリダは、文学作品の起源とその解釈をめぐる当時の議論を彼なりに引き受けつつ、〈書こうとすること〉(vouloir-écrire)という語を登場させている。ここでデリダはこの〈書こうとすること〉を、(ブランショとアルトーの議論に付き添う形ではあるが)意味作用のすべての「起源」であるかのように取り扱っている。本稿はこの〈書こうとすること〉が〈言おうとすること〉といかに交差し、また相異なるのかを検討するものである。
先行研究では、ヌーヴェル・クリティック批判である「力と意味作用」とフッサール批判である『声と現象』が結びつけられることは少ない。しかし、いずれの論考も「言語と主体の起源」をめぐって議論が展開されていること、さらにこのふたつの概念──〈書こうとすること〉と〈言おうとすること〉──が、「意志」(volonté)の問題系の周囲に配置されていることを鑑みれば、ふたつの論考が結びつけられるのは必然的であるように思われる。ただし、本稿はデリダの議論を文学に還元しようとするものではない。というのも、「言語と主体の起源」をめぐる問いそのものは、デリダがフッサール『幾何学の起源』(1936年執筆)の「序説」(1962年)においてエクリチュールの問題を提起したとき以来、一貫しているからである(事実「力と意味作用」にも『幾何学の起源』が引用されている)。本稿のねらいは、ふたつの論考の検討を通じて、前期デリダの横断的な議論の一貫性を示し、現象学と文芸批評というふたつの領域を架橋する論点を明らかにすることにある。