2022年11月12日(土)
午前13:30-16:00

  • その恋闕を見るのは誰か?──三島由紀夫作品を通して見る『刀剣乱舞』のまなざしの構造/渡部宏樹(筑波大学)※オンライン発表
  • 「逆シミュレーション音楽」における物語とその解釈における(非/)身体性/大久保美紀(パリ第8大学)※オンライン発表
  • 機械の外の幽霊──関係論的アプローチとアニメイテッド・ペルソナ/伊藤京平(立命館大学)
  • 「出来事」の解釈学──フレドリック・ジェイムソンのサルトル受容/客本敦成(大阪大学)

司会:小田透(静岡県立大学)


その恋闕を見るのは誰か?──三島由紀夫作品を通して見る『刀剣乱舞』のまなざしの構造/渡部宏樹(筑波大学)

 2015年にブラウザ・ゲームとして発表され2.5次元舞台など多メディアに展開している『刀剣乱舞』は、現在でも人気を博し日本刀ブームを引き起こしたと言われている。プレイヤーが審神者(さにわ)となって日本刀に込められた思いを「刀剣男士」として顕現させ、歴史の改変を目論む「歴史修正主義者」と名付けられた敵と戦うという設定であるが、ゲーム性よりも、「刀剣男士」同士の関係性や元の持ち主である歴史上の人物に対して彼らが抱いていた思慕の情がプレイヤーに向けられることが快楽の中心となっている。審神者によって日本の歴史的過去のエピソードを呼び出すという設定は三島由紀夫の『英霊の聲』(1966年)を強く想起させるものの、「刀剣男士」たちはプレイヤー=審神者に対して強い忠誠心を示すのに対して、三島が召喚する二・二六事件の青年将校と太平洋戦争末期の特攻隊員が示す感情は素朴な思慕ではなく天皇制を強く支持するからこそその勤めを果たさなかった昭和天皇に呪詛を述べる。
 本発表は、三島にあったねじれが『刀剣乱舞』に存在しないことを出発点に、天皇に対する恋愛にも似た強い感情を意味する恋闕に注目し関連する三島作品と比較することで、『刀剣乱舞』におけるまなざしの構造を分析する。映画学におけるまなざしの理論、『憂国』(1961年)における麗子と武山の見る/見られる関係、『文化防衛論』(1967年)における見かえす全体性としての「文化概念としての天皇」といった議論を参照することで、プレイヤー=審神者が「刀剣男士」の恋闕をまなざす『刀剣乱舞』の中でどのように天皇制がポピュラー文化としての表象を与えられているかを議論する。

「逆シミュレーション音楽」における物語とその解釈における(非/)身体性/大久保美紀(パリ第8大学)

 作曲家の三輪眞弘(1958-)は、西洋音楽が前提とする伝統的な身体鍛錬や固定化されたオーケストレーションの枠組みを超え、「機械−身体」の関係性に拠る芸術論を展開している。彼は、コンピュータを用いたアルゴリズミック・コンポジションという手法を用いて、コンピュータ空間で検証されたある法則に基づく現象を現実空間で生身の人間が模倣する「逆シミュレーション音楽」を考案した。このような音楽作品は、作曲家が規定するアルゴリズムを解釈・実践するパフォーマーによって、しばしば舞台芸術的演出を伴って実演されてきた。テクノロジーの時代の新しい身体性に拠るこうした音楽は、国際的に高く評価される。
 三輪は2002年から04年まで参加した還元主義的芸術運動「方法主義」において、「方法マシン」を提案する。そこで、「逆シミュレーション音楽」初期作品である《またりさま》の演奏を通じて、論理計算に基づく規則を現実世界で実現する重要性を強調した。異なる「逆シミュレーション音楽」はそれぞれ、コンピュータが行うXOR演算のような規則に加え、「という夢を見た」と締め括られ、架空の古代文明や民間伝承にインスピレーションを受けたと思われる物語を持つ。演奏される音が精神性や感覚に依拠することを否定する「逆シミュレーション音楽」が、一見規則と無関係のフィクションを纏うのはなぜか。作曲家は、身体が演算を完璧に遂行するためには認識の枠組みとしての物語が必要であると説く。
 本発表では、「逆シミュレーション音楽」作品が「あり得たかもしれない」物語に紐づけられる意味に着目し、人間の機械への憧憬と認識の問題を検討した上で、現代における新しい(非/)身体性に基づく芸術表現の可能性を考察する。

機械の外の幽霊──関係論的アプローチとアニメイテッド・ペルソナ/伊藤京平(立命館大学)

 ロボットやAIの道徳的地位に関する理論の多くは内的性質──例えば意識・感じ感覚する能力の有無──に基づくものであるが、それらの性質を所有していることの実証可能性は低く、少なくとも現状のロボットやAIは該当しない。一方、近年提唱された外的性質に基づく関係論的アプローチは、内的性質に基づく理論とは別の仕方で道徳的地位に関する問題を探究する新しい潮流と言えるが、どのようなときに人間とロボットやAIの間に道徳的関係が成立するのか曖昧な点が残されている。 
 本発表は森岡正博によるアニメイテッド・ペルソナ(animated persona)についての理論を補助線として、関係論的アプローチにおける道徳的関係の一つの極致を示す。森岡によれば、アニメイテッド・ペルソナは心の帰属が必ずしも叶わない対象(脳死患者、木、仮面)にも見出される。さらに生物・無生物を問わず適用可性を持つ3つのレイヤーが存在する。それらは1. 生物学的対象物のレイヤー、2. アニメイテッド・ペルソナのレイヤー、3. 自己意識的存在のレイヤーである。本発表は心理学における心の理論を用いて1.と2.の境界問題に回答し、主体にとって心の理論の埒外の状況にある対象に心を帰属する、届かないものへの祈りのような信念──唯物論的に説明可能だが対象の物理的身体には存在しない性質──を霊魂(anima)と位置付ける。これにより、関係論的アプローチにおける道徳的関係の極致とは、ロボットやAIに霊魂を見出すことであると結論づける。

「出来事」の解釈学──フレドリック・ジェイムソンのサルトル受容/客本敦成(大阪大学)

 本発表はアメリカの理論家フレドリック・ジェイムソン(Fredric Jameson 1934-)の著作『サルトル 文体の起源』(1961年)におけるサルトル論を検討し、ジェイムソン理論の内容を明らかにする。
 ジェイムソンは主著『政治的無意識 社会的象徴的行為としての物語』(1981年)において、自らの「政治的解釈学」の理論を解説している。「政治的解釈学」は芸術作品や文化事象の歴史的位置を定める(「歴史化」する)理論だが、その内容が十分に理解されているとは言い難いだろう。
 そこで本発表では『サルトル』を検討することで、ジェイムソンの理論が、解釈対象における不在を解釈することで対象の歴史的位置を定めるものであることを明らかにする。具体的には、「出来事」概念を中心に『サルトル』の議論を整理し、同書における「出来事」と「出来事」の「解釈」が、「政治的解釈学」の原型であることを示す。
 『サルトル』の議論は以下のように整理される。サルトルの文学作品では物語上の「出来事」が不在として描かれる。読者はサルトルの作品を読み、この不在に直面する登場人物の意識を共有する一方で、意識には還元されない、登場人物の偶然的な性質も認識する。意識と性質の隔たりは読者の「解釈」において埋められる。この時、性質を偶然的なものとしていた既存の解釈枠組みが変化し、新たな解釈枠組みによって作品の歴史的位置が定められる。
 以上の整理を行ったうえで、『サルトル』での議論が修正されつつも「政治的解釈学」にまで受け継がれると結論する。