2022年11月12日(土)
午前13:30-15:30
- Rethinking Identity and Female Images in Xinjiang Ethnic Minority Films in the Seventeen Years (1949-1966)/Li Wenxin(Nagoya University)
- 民族の分離──『嗚呼 満蒙開拓団』における引揚者と残留孤児との交差的な表象について/羅霄怡(名古屋大学)
- 『海角七号』の「融和」がもたらす台湾ナショナリズムの高揚——言語の含意と視点の転換から導かれる非優位的な日本表象/原口直希(京都大学)
司会:ミツヨ・ワダ・マルシアーノ(京都大学)
Rethinking Identity and Female Images in Xinjiang Ethnic Minority Films in the Seventeen Years (1949-1966)/Li Wenxin(Nagoya University)
Seventeen years cinema refers to the films produced between the establishment of the People's Republic of China (1949) and the Cultural Revolution (1966), which is often closely intertwined with political movements. This paper approaches the ethnic minority film as a major filming theme of Seventeen years cinema to discuss the ethnic minority identity and how the ethnic female image is integrated. Notably, I will focus on three ethnic minority films from Xinjiang: Hasen and Jiamila (hasenhejiamila, 1955), Visitors On The Icy Mountain (bingshanshangdelaike, 1963), and Red Flowers of the Tianshan (tianshandehonghua, 1964). I first argue that ethnic minority film, an important tool in constructing a Han-centered unified nation-state discourse, inevitably reflects the chaotic political environment from 1949 to 1966. Secondly, the intersectionality of ethnic minority female characters creates strong narrative tension and enriches the genres of ethnic minority films. Finally, ethnic minority female characters are crucial in constructing a unified ethnic discourse. Yet they are often in a state of ambivalence that is both visible and invisible. Behind their overlapping gender and ethnic identity is an underestimated agency covered by sexualized and exoticized images.
民族の分離──『嗚呼 満蒙開拓団』における引揚者と残留孤児との交差的な表象について/羅霄怡(名古屋大学)
本発表では、ドキュメンタリー映画『嗚呼 満蒙開拓団』(2009、羽田澄子監督)を取り上げ、これが別々の社会問題として論じられることの多い日本人引揚者と残留孤児の問題を巧妙に結びつけている点を考察する。ロリ・ワット(Lori Watt)によると、「民族の分離」とは、主に第二次世界大戦後の東アジアにおける地政学的空間の再編に伴う日本におけるポスト帝国の人口移動現象を指すという。
本発表では、自身も引き揚げ経験を持つ羽田監督が中国と日本の間を往復する旅を通して、二つの民族分離の過程を、引揚者たちの人生の証言を記録した映画というかたちでどのように跡付け、表現したかを検討する。引揚者の語りが、多民族的な帝国から単一民族の国民国家としての戦後日本へ転換を遂げるプロセスの一端を担うのに対して、残留孤児の存在はこうした引き揚げの不完全さだけでなく、戦争の遺産と諸問題の執拗な持続そのものである。
さらに、やはり引き揚げ経験を持つ高野悦子が主事を務めた岩波ホールと東京国際女性映画祭が羽田作品に触れる主要な空間となったことに着目し、作家とキュレーターの当事者がどのように引揚者と残留孤児の交差を可読化する表象空間を担保したかを考察する。
『海角七号』の「融和」がもたらす台湾ナショナリズムの高揚──言語の含意と視点の転換から導かれる非優位的な日本表象/原口直希(京都大学)
魏徳聖監督による台湾映画『海角七号』(2008)は、素人バンドがライブの成功を目指して奮闘するさまを描いたバックステージ・ミュージカルであり、そこにバンドリーダーの台湾人阿嘉とマネージャーの日本人トモコ、さらに60年前の日本人教師と台湾人小島友子という2組のカップルによる恋愛が絡められている。
本発表は『海角七号』に関する各種インタビューなどにおける魏徳聖の「融和」という発言および日本表象に注目し、作品に内在する台湾ナショナリズムの高揚をもたらすものの存在を明らかにするものである。
『海角七号』は台湾ナショナリズムの高揚をもたらすと評され、台湾映画が構造的不況下にあった2000年代に台湾映画史上最大の興行収入を記録し、2022年現在まで続く「台湾ポストニューシネマ」の先駆けとなった作品である。そのためさまざまな論者の注目を集めてきたものの、先行する「台湾ニューシネマ」に比して芸術性に欠けると判断されたため映画の美学的要素は等閑視されてきた。
これに対して本発表は『海角七号』の美学的要素に注目する。具体的には、まず台湾語の一人称複数代名詞における包括形/除外形の違いをいかした表現に「融和」の含意を剔出する。さらに「融和」の達成が描かれるバンド演奏のシークエンスでは特徴的なショット連鎖により視点の転換が行われ、その結果生じる非優位的な日本表象が台湾ナショナリズムの高揚へ繋がることを明らかにする。