2022年11月12日(土)
午前10:00-12:30
- 女は共有可能か?──初期ソ連映画が描いた共同住宅コムナルカの性愛/本田晃子(岡山大学)
- ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』における断片化の説話的機能を巡って/三浦光彦(北海道大学)
- 記録映画と私小説の交差点──今村太平の記録映画論の再考察/王琼海 (立命館大学)
- 殺しのアナキズム──大和屋竺監督作『毛の生えた拳銃』論/崔文婕(北海道大学)
司会:堀潤之(関西大学)
女は共有可能か?──初期ソ連映画が描いた共同住宅コムナルカの性愛/本田晃子(岡山大学)
革命直後のソヴィエト政権は、都市の住宅難を解決するため、既存の住宅を公有化し再配分する政策を進めた。その結果生まれたのが共同住宅「コムナルカ」だった。コムナルカでは一家族に一室が与えられ、台所やトイレなどの空間は他の住人と共有された。多様な出自の人びとが衣食住を共にすること、すなわち生活の物理的な共同化・集団化こそが、階級の解体と社会主義共同体の建設を実現するのだと、信じられていたのである。
このような公的見解を代弁したのが、コムナルカにおける階級融和を描いた映画『圧縮』(1918年)だった。そこでは空間の共有だけでなく、そこで育まれる異なる階級の男女の愛が、新しい共同体の基礎となる。だが既にカップルが成立している場合、『アエリータ』(1924年)や『第三メシチャンスカヤ通り』(1927年)などの作品が示すように、コムナルカはしばしば男女の結合に対する潜在的な脅威の空間へと変じた。そこでは夫は、妻と他の男性住人との不倫関係に苦しめられる。住人同士の共同体の構築と、男女の性愛による結合の間のこのような矛盾・葛藤に対して、ソ連映画はどのような回答を示したのだろうか。
本報告では、Lynne Attwoodらによるソ連住宅史・ジェンダー史研究や、さらに当時盛んだったコロンタイらによる性愛論を踏まえたうえで、コムナルカという極めてソ連的な住空間が、映画のナラティヴを通じて性愛の問題とどのように結びつけられたのかを明らかにする。
ロベール・ブレッソン『少女ムシェット』における断片化の説話的機能を巡って/三浦光彦(北海道大学)
ロベール・ブレッソンは、身体や空間を断片化したイメージの集積によって物語を構築するという手法を用いることで知られている。この「断片化」と呼ばれる方法に関して、ジル・ドゥルーズは、映画における因果関係の連鎖に一時的な断絶を齎す機能を見出す一方、ジャック・ランシエールは、反対に、因果関係を短絡させる機能を担うと結論づけている。本発表では、『少女ムシェット』(Mouchette, 1967) を対象に、断片化がどのような機能を担っているかを、ドゥルーズとランシエール、二人による対照的な議論を批判的に検討し、ショット分析の観点から再考することを試みる。
発表では、まず、映画冒頭シークエンスに関して、詳細なショット分析を行う。ここで見えてくるのは、ランシエールの主張とは反対に、因果関係がイメージの相似性によって曖昧になっていく様子である。だが、ドゥルーズの言うように単に因果関係が断絶される訳ではないことを、今度は映画全体たちの人物の行動や相似性に着目して明らかにする。冒頭シークエンスで曖昧になっていた因果関係の連鎖は、その後の物語展開によって遡行的に明白さを取り戻していく。こうした分析を通じて、ブレッソンの断片化によるショットは、前のショットと次のショットによってのみ、その意味が決定されるのではなく、むしろ全く別のショットと有機的に接続されることによって意味を生み出すという、複雑な説話的機能を担っていることを明らかにする。
記録映画と私小説の交差点──今村太平の記録映画論の再考察/王琼海 (立命館大学)
近年、アニメーション研究の領域から戦時下の映像評論家である今村太平の仕事が掘り起こされ、再検証されつつある。今村の仕事は入江良郎によって「漫画映画は記録映画と共に特権的」であると総括されたように、アニメーションと記録映画という二つの軸で展開されたが、それぞれ異なる文脈で議論され、両者の有機的な関係が十分に検討されていなかった。
そのような状況になったのは、今村は記録された映像におけるモンタージュ的な介入を高く評価したにも関わらず、しばしばその姿勢に反して介入を否定し、絶対的な事実性に拘る発言をしたからである。その事実性への拘りは、論敵との記録映画論争を引き起こした上に、記録映画論を虚構であるアニメーションに接続する時の理論的障碍となったのである。その問題を解決するための手掛かりとして、今村の私小説論がある。志賀直哉の小説を記録映画的に読み解く今村の私小説論は、主観をもって客観を記録することをテーゼにし、モンタージュ的な介入と事実性への拘りを両立させる論を展開している。
本発表では、今村の主観をもって客観を記録するというテーゼの実態や、その論理に至るまでの道を明らかにするために、著作や論敵との論争を中心に今村の記録映画観を再考察する。最終的に、今村が持つ独特なリアリズムを明らかにし、その視点から今村の記録映画論と漫画映画論の関係性を考察する。
殺しのアナキズム──大和屋竺監督作『毛の生えた拳銃』論/崔文婕(北海道大学)
本発表は大和屋竺の監督作『毛の生えた拳銃』(1968年)の分析を通して、脚本作の量産を強いられながらも先鋭性を手放さなかった大和屋竺を考究する。本作は鈴木清順監督の『殺しの烙印』(1967年)に由来する破局的殺し屋映画の系譜に属する。ジャンプカットを多用する文法破壊性を持ち、双数の状態で現れる主人公の殺し屋コンビが月給で働く滑稽さ、漫画を彷彿とさせる動作などによってコミカルな作品に作り上げられた。
60年代後半、ピンク映画の分野では大和屋は低予算、短期間の制作で有名な若松プロに依拠しており、本作にも同プロ特有の反権力的メッセージが存在した。本作では蹉跌する殺しが反復することで物語が停滞するが、双数性を維持した殺し屋コンビが、復讐のために組織に仇を討とうとする司郎のために依頼主の組織を最後に皆殺しにしたことで破局を迎える。この破局は乱交パーティのさなか、待ち続けた司郎が定義不能な幻として再出現した点に既に兆しており、時間によってもたらされる信憑の不在は従来作『裏切り季節』(1966年)と『荒野のダッチワイフ』(1967年)にも大和屋的特質として描かれていた。同時に、描かれる組織の逼塞には同時代の学生運動の状況もリンクしている。
本発表では、セリフと仕草における主人公の分裂と統一、および断片的な物語表現を整理し、部分と全体における意味と関係性を分析する。分析の際には、部分が各自に寓意を秘めながら全体の布置関係の一部でもあるというベンヤミン的思考を援用する。また、殺し屋コンビの「対」表象、司郎という人物像の多義性、飛躍はおろか穿孔にまで至るジャンプカットについて分析し、脱構築的な世界認識が招来するアナキズムの性質について明らかにする。