2021年12月5日(日)
午前10:00-12:30

  • 今村太平と「音画的原形質」──アニメーションにおける「原形質」の感覚横断性の再検討/王琼海(立命館大学)
  • 物音と言葉──リチャード・フライシャー『ラスト・ラン』の音響設計/早川由真(立教大学)
  • 現代映像芸術のスクリーン・プラクティス──2021年に開催された3つの展覧会を中心に/馬定延(関西大学)
  • アントナン・アルトーの俳優論再読──新しいスペクタクルのために/吉水佑奈(神戸大学)

司会: 仁井田千絵(京都大学)

今村太平と「音画的原形質」──アニメーションにおける「原形質」の感覚横断性の再検討/王琼海(立命館大学)
近年のアニメーション研究において、エイゼンシュテインの「原形質論」を再評価する流れがあった。「原形質」とは、キャラクターの輪郭などが不定形で、自由に変化できる性質を指し、アニメーション独特の魅力とされてきた。今井隆介、土居伸彰などの先行研究では、この不定形の性質を視覚だけでなく、聴覚も横断する前感覚的なものとして再定義した。しかし、そこでは聴覚=音声を視覚から派生する二次的なものとして捉え、映像と音声は対等な関係ではなく、その相互作用への言及が不十分である。
この問題を解決するために、エイゼンシュテインから影響を受けていた戦時下のアニメーション理論家である今村太平を取り上げる。先行研究では「原形質」を捉え逃したと批判される今村は、映像と音声の関係性を指す戦時下の特殊な用語「音画」を使い、「原形質論」と類似する理論を主張しただけでなく、それを感覚横断的なものとして、視聴覚の両方面から検討した。
本発表では、今村の「音画的原形質」の実態や、そこに至るまでの道を明らかにするために、戦時下の映画雑誌などの一次資料を使い、「音画」という言葉の歴史的文脈を説明した上で、今村のテキストを解読する。最終的に、「音画」による感覚のメタモルフォーゼという「音画的原形質」の意義を議論し、原形質論おける映像と音声の関係を対等なものとして捉え直し、その相互関係を考察する

物音と言葉──リチャード・フライシャー『ラスト・ラン』の音響設計/早川由真(立教大学)
本発表では、リチャード・フライシャー監督『ラスト・ラン』(The Last Run, 1971)における映像と音の関係を分析する。1960年代末に始まるアメリカ映画の変革期(ニュー・ハリウッド)には所謂「ロード・ムーヴィー」が多数制作され、自動車の疾走感をもたらす音楽と映像の結びつきが様々な仕方で描かれた。先行研究は本作品を「ロード・ムーヴィー」ジャンルのなかに位置づけてきたが、あくまで周縁的な作品として扱い、その独特の音響設計について充分に論じてこなかった。そこで本発表では、Margaret Herrick Libraryにおける一次資料調査の成果を反映しつつ、以下の問題を中心に作品分析をおこなう。まず、冒頭の走行シーンおよび見せ場となる中盤のカーチェイス・シーンにおいて、なぜ音楽を用いずに物音を強調した音響が設計されているのか。こうした音響設計は、「ロード・ムーヴィー」の系譜において、あるいは音響に関する技術的な変革が生じたニュー・ハリウッドの作品群において、どのように位置づけられるのか。これらの問題を明らかにしつつ、まさに音(声、言葉にすること)と映像(顔、言葉にしないこと)の微妙な関係そのものが主題化されるメイン・キャラクターたちの描写についても考察していく。以上の分析を通じて本作品における音響設計の特異性を明らかにし、ニュー・ハリウッドに関する新たな知見を提示したい

現代映像芸術のスクリーン・プラクティス──2021年に開催された3つの展覧会を中心に/馬定延(関西大学)
2021年に開催された、ピピロッティ・リストの「あなたの眼はわたしの島」展、ホー・ツーニェンの「ヴォイス・オブ・ヴォイド──虚無の声」展、ロイス・アンの「満州の死それは戦後アジア誕生の基盤である」展は、いずれも入国制限のため来日できない作家による遠隔ディレクションで実現された、映像作品を中心とする展覧会である。リストは、客間や寝室などを連想させる会場を、靴を脱いだ観客が座ったり、寝転がったりしながら鑑賞するようにした。またホーは、歴史的なテキストを題材に、プロジェクションとVRを用いて映画的身体からゲーム的身体へと変容する観客の視聴覚的経験を導いた。他方、アンは、上映、対談、レクチャー・パフォーマンなどの多角的な活動を実空間とオンラインで同時に提示した。昨年から続くコロナ禍の中で、美術と映画を問わず、映像作品の体験は一時的なオンライン・プラットフォームへの移行を含め、変化を余儀なくされている。このような時代のリアリティーは、現代映像芸術の展示の美学、そしてその受容にいかなる影響を与えていくのだろうか。本研究発表は、発表者が論文「光と音を放つ展示空間──現代美術と映像メディア」(2019)のなかで論じた歴史と理論を、3人のスクリーン・プラクティスに対する分析を通じて、同時代の実践と批評的に接続させる試みである。

アントナン・アルトーの俳優論再読──新しいスペクタクルのために/吉水佑奈(神戸大学)
本発表は、アントナン・アルトーのテキスト「情動の運動 Un athlétisme affectif」(1935)を主な対象に、残酷演劇として総称される彼の演劇理論における俳優のあり方について考察するものである。
残酷演劇においてアルトーは、戯曲中心主義であった当時の西洋演劇を批判し、演劇を構成するあらゆる要素による全体的なスペクタクルの必要性を主張している。この演劇理論は、主に1960年代以降の演劇に大きな影響を与えたが、具体的な上演に適用することは不可能とされ、概念的な受容がなされてきた。しかし、残酷演劇論をまとめた著書『演劇とその分身』(1938)等において、彼が実際の上演を前提にした理論化を試みていたことは明らかである。そのなかでも本発表では、俳優について論じられた「情動の運動」に注目したい。ここでアルトーは、俳優を情動の筋肉を有する心の運動選手(アスリート)と呼び、その身体内部の働きを、呼吸に基づき論じている。先行研究(Allet, 2017など)は、俳優の身体の感覚を生理的・物質的に記述した反心理主義的な演技論として扱っている。しかし呼吸の仕組みをめぐっては、十分に論じられておらず、その結果アルトーの身体論における重要な契機が見逃されてしまっている。
上記の問題意識に基づき、本発表は、テキストの読解をつうじて俳優身体論を再構成し、アルトーの理想とするスペクタクルを考える。この議論はのちの「器官なき身体」へ展開する可能性をも含んでいるのではないだろうか

司会: 仁井田千絵(京都大学)