2021年7月4日(日)13:00-15:00
・ジョン・カサヴェテス『愛の奇跡』における俳優のパフォーマンス/堅田諒(北海道大学)
・ロベール・ブレッソンの演技論──モデルの「痙攣」する身体/三浦光彦(北海道大学)
・『恋のエチュード』における声と語り/原田麻衣(京都大学)
【コメンテーター】角井誠(東京都立大学)
【司会】木下千花(京都大学)
映画、とりわけ、作家が作品に及ぼす力が大きいとされる現代映画において「身体」はどのように考究されてきただろうか。映画における身体を巡るこれまでの研究は、イデオロギーを逆照射する表象としての身体を検討するものや、観客とスクリーン上の身体の関係を現象学的観点から考察するものなど、その射程は極めて広いが、いずれも従来の映画理論において支配的であった精神分析・記号論的モデルに対するオルタナティヴを志向している。
このような問題意識を共有しつつ、本パネルでは、ジョン・カサヴェテス、ロベール・ブレッソン、フランソワ・トリュフォーという作家主義的な受容がなされてきた3人の映画監督を取り上げ、それぞれの作品・方法論で、映画における「身体」が表象される際に、いかなる事態が起こっているのかを次のように検討する。堅田は、カサヴェテスの『愛の奇跡』を分析対象に、俳優演技の考察を行う。三浦は、ブレッソン演技論の内実を美学的・宗教学的観点から検討する。原田は、『恋のエチュード』を取り上げ、語りの構造における声の機能を考察する。本パネルが目指すのは、テクストの創造過程が刻印された身体の分析を通じて、テクストの諸特徴を主に監督という主体に還元してきた従来の作家論の再考である。三者の議論が重なり合う地点から、映画研究における新たな議論の可能性と課題を析出することが最終的な目的となる。
ジョン・カサヴェテス『愛の奇跡』における俳優のパフォーマンス/堅田諒(北海道大学)
本発表では、ジョン・カサヴェテスの『愛の奇跡』(A Child Is Waiting, 1963)を分析対象に、テクストにおける俳優のパフォーマンスを考察する。本作は、これまでの作家論的なカサヴェテス研究において、プロデューサーのスタンリー・クレイマーとカサヴェテスの対立や、クレイマーの編集への介入などから、監督カサヴェテスのコントロールが及んでいない作品のひとつとして分析対象となること自体が少なかった。本発表の目的は、俳優のパフォーマンスという観点から作品の捉え直しを図ることで、カサヴェテスと俳優たちの創造行為の一端を浮かび上がらせることである。
発表では、まず、知的障害児施設を舞台にした本作に対するクレイマーとカサヴェテスそれぞれの態度を整理し、クレイマーの編集によって明確化した作品のイデオロギー性を批判的に検討する。つぎに、それでも作品に残っていると思われるカサヴェテス的な演出の痕跡を、いくつかのシークェンスの俳優演技に見いだす。とくに、ジーナ・ローランズ、ジュディ・ガーランド、バート・ランカスターらが一堂に会する場面に注目し、俳優の声の演技、身体の動き、俳優同士の演技の掛け合い、空間の使い方などを検討する。最終的に、この場面における俳優たちのパフォーマンスの特質が、他のカサヴェテス作品にも共通している要素であることを述べ、『愛の奇跡』が従来のカサヴェテス研究に再考を迫る作品であると位置づける。
ロベール・ブレッソンの演技論──モデルの「痙攣」する身体/三浦光彦(北海道大学)
「人間の自然を、本性を、尊重すること」ロベール・ブレッソンは自身の映画的理念を纏めた書物『シネマトグラフ覚書』にそのように記している。だが、実際のブレッソンの映画、とりわけ、『田舎司祭の日記』以降の作品において見られるのは、極めて不自然な人物たちの動き、表情である。アンドレ・バザンが「脈絡のない痙攣」と形容した、ブレッソンの映画における「モデル」たちの表情、演技をどのように捉えるべきだろうか。
本発表では、ブレッソンの演技論を「痙攣」と言う言葉を鍵語として考察していく。一方的に俳優をコントロールしようとするブレッソンとそれに縛りつけられる俳優たち。両者の拮抗関係は、身体において「痙攣」として立ち現れるだろう。本発表では、この「痙攣」を美学的、宗教学的観点から論じていく。
ブレッソンは映画監督になる以前、シュルレアリスムのコミュニティと関わりを持っていたことが明らかになっているが、シュルレアリスムにおける「痙攣」という概念はブレッソンの演技論を考える上で極めて重要な示唆を与えてくれる。そして、この「痙攣」という概念はキリスト教の異端派ジャンセニスムに由来しており、ブレッソン自身もジャンセニスムを信仰していたことは先行研究においても指摘されてきた。シュルレアリスムとジャンセニスム、フランスにおける美学的、宗教的コンテクストがブレッソンの演技論に結実していることを示すのが本発表の目標である。
『恋のエチュード』における声と語り/原田麻衣(京都大学)
フランソワ・トリュフォー作品を特徴付ける要素の一つに「ナレーション」がある。今回取り上げる『恋のエチュード』(Les Deux Anglaises et le Continent, 1971)は、ナレーションがトリュフォー本人によってなされる唯一の作品である。トリュフォー作品において三人称のナレーションが用いられる場合、徹底的にその語り手の姿が映像から排除され主体の匿名性が守られてきたことに鑑みれば、本作の語り手は例外的といえる。また、映画冒頭で物語世界外の声は主演のジャン=ピエール・レオーからトリュフォーへと流れるように移行する。先行研究はそれを作家トリュフォーの介入として捉え、「トリュフォーが語る物語」という意味で「一人称単数の映画」と認識してきた。
本発表ではこうした先行研究の指摘を敷衍しつつ、これまで十分に検討されてこなかった原作・脚本資料との関係性を踏まえて、この作品の生成過程を分析する。原作となったアンリ=ピエール・ロシェの小説『二人の英国女性と大陸』は、手紙と日記で構成されるという特徴を持つ。原作の持つ形式が映像として受肉化=身体化されるさい、声はどのような機能を果たしているのか。これを明らかにすることで、語り手によるヴォイス・オーヴァーのナレーションと登場人物の台詞/モノローグが緊密に作用し、声と物語世界の重層的な位置関係を築いている『恋のエチュード』の特異性に迫ることが本発表の目的である。