日時:15:20 - 16:40
場所:山形大学小白川キャンパス 人文社会科学部1号館 201教室

  • 「一つの文」とは何か──現代中国語小説の分析から/橋本陽介(お茶の水女子大学)
  • アンゲロプロスからヴェイユへ──『シテール島への船出』をめぐって/今村純子(立教大学)

司会:北村紗衣(武蔵大学)

「一つの文」とは何か──現代中国語小説の分析から
橋本陽介(お茶の水女子大学)

言語における「文」の定義はさまざまあるが、意味としては「ひとつのまとまった考えを表すもの」とされる。形式的には現代の書き言葉では「句点から句点まで」が「一つの文」と通常は見なされる。しかし中国語の物語文では、読点・句点による区切り方が日本語や英語などの言語と相当に異なっている。区切り方が異なるということは中国語の「一つの文」の観念が日本語や英語とは異なるということである。本研究は、中国語小説文における「一つの文」がどのように構成されているのかを明らかにする。

Givón(1997)は、文法的複雑さを得る手段として、「従属構造」と「連続構造」があることを指摘している。中国語は「従属構造」を取ることが少なく、「連続構造」を好む言語であり、「連続構造」を用いてその修辞的特徴も発展させてきたと考えられる。従来の研究において中国語の「文」が奇妙に思われるのは、「従属構造」を基本とする「文」の観念、論理を前提としているからである。ところが、中国語を観察すると、それとは異なる法則に基づいて「一つの文」を作っていることがわかる。ではそれはどのような法則だろうか。

「文」とは現実をコード化し、表象するものである。中国語のような言語の観察からは、これまで当然と思われてきた欧米言語中心の書き言葉における「一つの文」の観念が揺さぶられることになる。「一つの文」とは何か、新たな問題を提起したい

なお現代では文学と言語学の研究が分断されているが、論者の提唱する「比較詩学」はその両者をつなぐものであり、どちらかの規範に収まるものではない。既存の様々な研究領域にとって、新たな問題を提起するものである。その考え方と、広がる研究領域についても言及する。


アンゲロプロスからヴェイユへ──『シテール島への船出』をめぐって
今村純子(立教大学)

テオ・アンゲロプロス(1935〜2012)とシモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)は、活動時期を戦後と戦前にわけている。一方、その思想の核に古代ギリシアを置くヴェイユは、戦後ギリシアの政治・社会を知らない。だが両者の資質として、歴史的・社会的自己を手放さずに、水のイマージュに満ちた詩的表現のありようを示す点には相通ずるものがある。ヴェイユの思想の背景にはつねに南仏の光が注いでおり、アンゲロプロスの表現の基調にあるのは「霧の中の風景」である。ヴェイユが工場内の物質に「映し出す」働きを見るのに対して、アンゲロプロスは凍結した路面の薄氷や曇りガラスにうっすらと映し出されるものを捉えてようとしている。たとえば、オーディションのシーンに集められた無数の役者たちがそれぞれに発する「わたしです」という台詞も、32年亡命していた父の発する力ない言葉も、その父に語りかける母の愛情深い言葉も、その境界や輪郭は茫然としており、すぐさま雲散霧消してしまいうるものである。

映画『シテール島への船出』は、ヴェイユが述べる「不幸がつくる島」へと、生のリズムをとって向かう一点がわたしたちのうちにあること、また、「海のなかの一滴の雫」のように生きる自由を、まさしく霧の風景のうちに描き出している。本発表では、アンゲロプロスの作品の放つ光によって、ヴェイユのうちなる萌芽の可能性を探ってみたい。