日時:2018年7月8日(日)14:00-16:00
場所:人文学研究科B棟(B135)

パネル概要

・キャラクターのいる場所──音楽と空間について/長田祥一(城西大学付属城西中学高等学校)
・黒が色として見せる奥行きについて/浦野歩(一橋大学)
・字幕/陽光のモーメント──『マルメロの陽光』における字幕とホワイトアウトの係わりを中心に/下山田周平(一橋大学)
【コメンテーター】阿部修登(一橋大学)
【司会】武村知子(一橋大学)


スクリーンに、鏡に、水面に、目に、脳裏に、「像」は「映」る。本パネルでは「映る」と称されるそれらすべての「像」を「映像」として扱うこととし、とりわけ脳裏に「映」る「像」であるところの「映像」を発表者三者の発表テーマとする。

「映像」という言葉のこの定義は、発表者三名が考察の対象とする、視聴覚媒体における「像」の生起に際し機能する諸要素のありかたから必然的に要請されるものである。本パネルでは、「像」は畢竟、我々鑑賞者の認識においてのみ存在するという立場を採用するが、このことは、「像」が各鑑賞者の主観によってのみ成立するということを意味するわけではない。「像」が我々の脳裏に「映」るに際しては、各鑑賞者が通常意識しない無数の構造が、意識の埒外にあるがゆえの機能を発揮し、結果的に各鑑賞者の認識において「像」を成立せしめる。そのプロセスは必然的な事実の連鎖であって、決して主観的なものではない。

本パネルでは各発表者が、この意識外に存在するプロセスに関与する要素として「音楽」「黒」「白=光」の三つを取り上げ、それぞれの「アニメ」「絵画」「実写映画」における機能を考察する。これらの要素は「像」の存立基盤としてのいわゆる「空間」の生起、およびその「空間」内に存在するものとしての「像」の認識にそれぞれ深く寄与するが、その寄与のしかたは要素毎に異なり、また媒体によっても異なるのである。

キャラクターのいる場所──音楽と空間について
長田祥一(城西大学付属城西中学高等学校)

アニメの画面に映るキャラクターの姿と背景は限定的、擬似的な空間性しか帯びていないが、音は持続的な空間性を持っている。鑑賞者の脳裏に映る映像においては、キャラクターは音を出す者になりうるし、映っている風景はその音が響きうる空間ともなりえ、キャラクターはその空間内に位置を占める者ともなりうる。しかしキャラクターと音と空間との、互いが互いを支えるようなこの関係は長くは続かないし、相互の支え合いが常に全て維持されるわけでもない。そのことが最も明白に観察されるのが音楽演奏の場面である。

音楽は常に、たやすくキャラクターの演奏動作から離れBGMへ移行してしまう。インからオフ、画面外への免れがたい音楽の移行に沿って設計された画面の連鎖を観察することは、画面と音楽が結びつき離れていく仕方を観察することであり、脳裏において空間が立ち上がるその立ち上がりの諸相を観察することである。その空間は、背景とキャラクターが運動をもって音と関わり合うことで形成する全体の中に見いだされるものであり、常に運動性と関わりながら生起していく、謂わば動的な空間である。アニメ画面における運動の持続はショットやキャラクターの動きの切り替わりによって頻繁に切断されるものであるのだが、しかしその切断以外にアニメの画面と音楽とが同期する契機はないのだ。

本発表においては、主にテレビアニメ『家なき子』(1977)における音楽演奏の場面をめぐって、持続性のある空間が脳裏に映るまでのプロセスを観察し、その空間にキャラクターがいるということの内実を考察する。


黒が色として見せる奥行きについて
浦野歩(一橋大学)

本発表は、黒色と、描かれた建物空間との関係を巡るものである。

建物を描いた絵画にベタ塗りの黒が用いられ、それを鑑賞者が暗い領域と見なしたとする。現実であれば他の感覚器官で把握できるその領域の奥の様子も、絵画では視覚で捉えることしかできないが、その領域は黒のベタ塗りであるため、鑑賞者の目は、暗い領域がどれほどの奥行きを持つのか、その奥に何があるのか、を把握できない。しかし、恐らく鑑賞者はそれを「暗い」と一括りに考え、それ以上意識することはない。仮に鑑賞者が奥行きを意識するとしても、黒い領域の奥は目に見えず「なにもない」としか形容できないような空間であるから、その奥行きは、絵画の名やテキスト、黒の領域の周辺などから類推されるものでしかない。それゆえ、黒の領域がその周辺と何らかのコンフリクトを起こした場合には奥行きの把握に支障をきたすこととなる。しかし、このコンフリクトへの注目によって、その絵の建物空間の形成のされ方が明らかになることがある。それは平面における空間の立ち上がりという、より普遍的なテーマと大きく関係する。

本発表ではそのようなコンフリクトの例として、19世紀のデンマークの画家、ヴィルヘルム・ハンマースホイによる絵画《中庭の眺め、ストランゲーゼ30番地》を取り上げ、描かれた建物で起こる上述のコンフリクトへの注視によって、黒色の色としての特性と、建物空間の形成との係わり方を論じる。


字幕/陽光のモーメント──『マルメロの陽光』における字幕とホワイトアウトの係わりを中心に
下山田周平(一橋大学)

映画を見ているとき、字幕が表示されることがある。字幕はぱっと現れては数秒後に消えてゆく。観客は字幕を見る、と同時に、読む。登場人物の発話、年代、場所などが記された字幕の文字情報から観客は映画の台詞や設定を読み取る。字幕を見て読むというプロセスにおいては観客のなかである不文律が働いている。字幕を、物語世界内にはないものとして見るということだ。本発表ではこの不文律を問い直す。『マルメロの陽光』(ビクトル・エリセ監督、1992年)を考察の対象としてこの作品の字幕を作中のホワイトアウトと絡めて考える。

作中でホワイトアウトはシーンの切り換わりに生じる。そのときの画面には画面内を白トビさせるほどの光源は見当たらない。画面内/外とは無関係の場から、つまり物語世界の外から一見その現象は引き起こされている。だがつぶさに観察すると、実は物語世界内にホワイトアウトの光源と、その光に照らされる空間が存在することが明らかとなる。それは映像の連鎖を観客が追う限りにおいて各々に認識されると同時に物語世界内に呼び出される想像的な光源と空間である。本発表ではこの空間から射し込む光をよすがに『マルメロの陽光』の字幕の色を捉え直し、字幕の不文律に囚われたままでは知覚できない一瞬、すなわち字幕が物語世界内で輝く陽光となる瞬間/契機を示す。この変化は映画のあらすじや観客のいる上映空間にも影響する。