*開催時間、場所が変更されました
日時:2016年7月2日(日)16:30-18:30
場所:前橋市中央公民館5階504学習室

パネル概要

・写真と「真実」──犯罪捜査の歴史を手がかりに/橋本一径(早稲田大学)
・自殺の「発見」と変容──警察と死の社会的意味の歴史と現在/貞包英之(立教大学)
・公安とは何か──事件の不在と透明な組織/熊木淳(尚美学園大学)
【コメンテーター】高桑和巳(慶應義塾大学)
【司会】橋本一径(早稲田大学)


 いわゆる「警察の厄介になる」ことがなかったとしても、現代の日本にいる我々は多かれ少なかれ不可避的に生活の中で警察とかかわりをもっている。例えば我々が何気なく利用しているサービスを支える技術が、警察の捜査と極めて密接な関係を結んでいるだろう。また我々が目にする多くの報道は警察発表を経由しており、我々が触れる物語にはつねになんらかの形で組織、または個人としての警察が現れている。それはかつてなく現代を生きる我々が言説としての警察の肥大、そしてその表象の遍在を目の当たりにしているからであり、またとりわけ日本においては一つの組織以上のものとして現代社会に現れているからである。
 このような警察の肥大、遍在の事例を様々な観点から捉えるのが本パネルの目的である。例えば我々が日常目にする写真およびそれをもとにした認証技術はいまや被写体そのものの復元というよりもイメージそのものの解析によってしばしばなされるが、それが警察の捜査との関わりでは非常に危うい技術となりうる。また近代においてその社会的なありようを大きく変容させた自殺は、警察による「事件化」との関連において、そしてそれをめぐる警察と警察外とのせめぎあいの中で語られるべきだろう。このような背景をもとに、日本のドラマや小説は警察を全面に出すことによって単に事件化の審級としての組織、というだけではなく事件の場としての警察を描き出すことになるのである。


写真と「真実」─犯罪捜査の歴史を手がかりに
橋本一径(早稲田大学)

 犯罪現場などで撮影された写真が証拠として利用されるようになるのは、乾板の技術等により露光時間が短縮され、「デテクティヴ」と呼ばれる小型のカメラが普及し始めた、1880年代以降のことである。しかしながら、たとえばディオン・ブシコー(Dion Boucicault)が1859年に発表した戯曲『オクトルーン』では、殺人現場の決定的証拠が写真によってもたらされるという場面が、すでに描かれている。つまり写真が「真実」を捉えることができるという理念は、実際に写真技術がそれを可能にするのに先立って存在したことになる。だとすればそこで問題となる「真実」とは、いったい何なのか。
 本発表は、警察による犯罪捜査における写真技術の利用の歴史を手がかりに、写真と「真実」の関係の変遷を辿りなおす。それによって明らかになるのは、19世紀末のアルフォンス・ベルティヨンが発明した「口述ポートレート」以降、現実との物理的(インデックス的)な結びつきという意味とは異なる、もう一つの「真実」が問題になり始めたという事実である。そこで問題となる「真実」とは、警察のアーカイヴに保存された顔写真と、現実の人物との間の「整合性」である。デジタル時代を迎えて、このような「整合性」は、その重要性をますます増している。こうした現状を確認した上で、本発表が最終的に目指すのは、「真実であるという主張(truth claim)」(トム・ガニング)から写真を解放することである。


自殺の「発見」と変容─警察と死の社会的意味の歴史と現在
貞包英之(立教大学)

 20世紀初頭、日本では自殺は初めてひとつの「社会的事実」として記録され始める。手段や様態、死者の階層に応じて「縊死」、「溺死」、「諌死」などと分散していた死が、意志的な死としての「自殺」というかたちでまとめられていく。その背景には警察の活動の活発化があった。警察は、犯罪捜査を止める便利な死として「自殺」を発見し、(ときには遺族の意志にさえ逆らい)積極的に記録していくのである。
 その際、活用されたのが「厭世」という動機だった。自殺と認めるためには何かしらの「動機」が必要とされるが、曖昧ながら人の意志に死の原因をみる「厭世」という動機が重宝されていく。ただしその期間は長くはなかった。20世紀後半には、「厭世」は動機統計上から霧散し、代わって「精神障害」や「経済的貧困」などの原因が増加していく。その背景には、自殺に向かおうとするものを監視し、また事後的に意味づけする精神医学システムや生命保険システムの拡充があった。
 だがこうした変化をたんに自殺を管理する主体としての警察の衰退に起因するものとみてはならない。そこにむしろ、市民社会の警察化をみるべきではないのか。警察がもはや主要な主体として必要とされないほどに、死を監視し、分類する力が医者や保険会社の捜査官のもとに拡散し、いわば警察が偏在するなかで、自殺の変容も起こったのである。
 本論は、以上のように「自殺」を手がかりとして、死を見分け、事件化/非事件化することで、その表象を操作する警察の社会的力の変容について探っていく。


公安とは何か─事件の不在と透明な組織
熊木淳(尚美学園大学)

 日本で90年代に確立したとされる警察小説は、いわゆるミステリーの一分野にとどまらずに現在では小説のみならず映画やドラマ、アニメなど日本のある種の物語のあり方を規定するにいたっている。いうまでもなく警察が他の組織と大きく異なる点は、ベンヤミンの言う法措定権力に基づいて「事件化」を行い、それを解決するという点であり、デイヴィッド・ミラーが指摘するように違法状態を「事件」の中に囲い込むことによって法が適応されない「事件」の外部を特権化するという社会的機能を持っているという点である。その中で日本の警察をめぐる物語がえぐり出したのはこの「事件」の特異点であるといえる。つまり警察そのものが事件の場になりうるということであり、このことがフランス語のロマン・ポリシエ、英語のディテクティヴ・ストーリーという語に収まりきらない「警察小説」という独特のジャンルを作り出したといえる。
 本発表ではそのような日本の警察をめぐる物語のありようをもっとも極端な形で描き出した公安警察を舞台にした物語を中心に扱うことで、その特異さを明らかにしていきたい。麻生幾が「公安は終わらない」と主張するように、公安においては「事件」の概念が絶えず揺らいでいる。また組織内での情報が共有されないため組織の輪郭をほぼ誰も知ることがない。このように公安(場合によっては組対)は警察をめぐる物語における重要な概念である「事件」と「組織」が限界状態にまで追い詰められるのである。