日時:2017年7月1日(土)16:00-18:00
場所:前橋市中央公民館5階502学習室

パネル概要

・2010年代の日本映画においてゲイ男性を描写すること/演じることについて/久保豊(京都大学)
・ 小津映画をクィアする──『彼岸花』にみるモノたちの潜勢力/伊藤弘了(京都大学)
・ 『夏子の冒険』における娯楽的演出と女性表象/須川まり(奈良県立大学)
【コメンテーター】ミツヨ・ワダ・マルシアーノ(カールトン大学)
【司会】木下千花(京都大学)


 テレサ・ド・ラウレーティスが「クィア・セオリー」を旗印に掲げ、レズビアン・ゲイ研究の更新を呼びかけたのは1990年2月(カリフォルニア大学サンタ・クルーズ校)のことである。ポスト構造主義の強い影響下に生まれ、フェミニズムの知見とも手を携えてきたクィア理論は、パフォーマティヴィティ(ジュディス・バトラー)やホモソーシャル(イヴ・コゾフスキー・セジウィック)といった重要概念を練り上げ、異性愛規範を所与のものとみなす社会認識(ヘテロノーマティヴィティ)への異議申し立てを行ってきた。
 「本質なきアイデンティティ」(デイヴィッド・ハルプリン)を標榜するクィアを正確に定義するのは困難だが、ジャック・デリダの散種(脱構築)やミシェル・フーコーの偏在的かつ流動的な権力モデルを色濃く受け継いだその概念の中核には、既存の社会構造の内部に攪乱の契機を見出し、構造内の序列を転覆しようとする姿勢が置かれている。
 このような来歴を持つクィア理論の射程はLGBTQの社会学的な分析にとどまらず、文学作品や映画作品にまで及んでおり、芸術作品をクィアな視点から読解する刺激的な試みが既に数多く提出されている。こうした先行研究に多くを依りつつ、本パネルでは過去と現在の日本映画に見られるマイナーな存在に注目し、広い意味でのクィア・リーディングを実践する。近年の日本映画におけるゲイ男性表象が異性愛規範を(久保)、小津映画にあらわれるモノたちが人間中心の世界観を(伊藤)、中村登の描き出す女性/観光表象が従来のジェンダー観を(須川)、それぞれ逆照射し、転覆させる契機を探っていく。


2010年代の日本映画においてゲイ男性を描写すること/演じることについて
久保豊(京都大学)

 日本の視覚文化において、性的マイノリティはどのように描かれ、またその表象の陰に何が隠されてきたのか。視覚文化研究者・菅野優香(2017)が示唆するように、私たちはまだ日本の視覚文化、とりわけ映画というミディアムと性的マイノリティをめぐる歴史性を十分に捉えているとは言いがたい状況に直面している。たとえばアジアにおけるクィア映画研究の潮流においても、日本映画に関しては大きな空白が存在し、その空白が容易に埋められる気配はない。
 一方、「LGBT」をめぐる議論は、長年のジェンダー・セクシュアリティ研究の成果をもとに、盛んに繰り広げられている。こうした状況のなか、ゲイ男性を主要キャラクターに含む、橋口亮輔監督『恋人たち』(2015)と李相日監督『怒り』(2016)が公開された。これら二作品は、興行成績的には恵まれなかったものの、(少なくとも都市部における)ゲイ男性の「リアル」を捉えたとしてゲイ・コミュニティから高い評価を得た。同時にこれらの作品は、「誰が誰を演じるのか」という問いを投げかける点で、演技と労働の問題にも光を当てている。
 以上を踏まえ、本発表では製作、演技、興行、そして受容という四つの観点から、クィア制作研究を参照しつつ、上記二作品におけるゲイ男性の表象の比較検証を試みる。ゲイ男性のみに限定した議論の限界を認めつつも、日本の視覚文化における性的マイノリティの表象を捉え返す契機の一つとしたい。


小津映画をクィアする─『彼岸花』にみるモノたちの潜勢力
伊藤弘了

 小津安二郎の映画が「変」であることは衆目の一致するところだろう。その奇妙さの感覚は、正面切り返しショット、静止したフレームやカットつなぎ、低いカメラ位置をはじめとする小津の執拗なこだわりが独自の様式に昇華されていることに由来する。古典的ハリウッド映画と呼ばれる規範が同時代の主流であったとすれば、小津は明らかにそこから逸脱している。
 そうしたずれは新たな規則を呼び込む。デイヴィッド・ボードウェルはそれらの逸脱が従っている規則体系を「内在的規範」と名付けた。一方、ボードウェルのいかにも研究者然とした手法をよしとしない蓮實重彥は、「説話論的な構造」と「主題論的な分析」という批評的な枠組みを駆使して、小津の奇妙さをより生々しいものとして取り出そうと試みた。
 ところで、規則は常に事後的にしか把捉できない。繰り返しあらわれる細部は遡及的にある規則の起源を仮構する。J.L.オースティンとジャック・デリダの衣鉢を継いでパフォーマティヴィティの概念をフェミニズムに取り入れたジュディス・バトラーは、反復可能な実践の束こそがジェンダーを形成すると喝破した。
 本発表では、バトラーの概念を参照することで、小津の映画的実践が独自の様式を立ち上げていった過程を捉え直す。その際、小津映画におけるマイノリティとして、モノ(事物)の次元を設定する。『彼岸花』(1958年)の分析を通して、人間の俳優たちとは異なる水準で(ときに相補的に)モノたちの世界が描かれていることを明らかにし、それが映画という大衆娯楽装置の内部から人間中心的な世界観を食い破ろうとする契機を探る。


『夏子の冒険』における娯楽的演出と女性表象
須川まり(奈良県立大学)

 本発表では、松竹の天然色映画2作目の『夏子の冒険』(1953年)を取り上げる。本作は、三島由紀夫の同名小説(1951年)を、娯楽映画作家のイメージが強い中村登監督が映画化したものである。一方で、演出面から前作『カルメン故郷に帰る』からの技術進歩を確認できるが、興行成績は期待されるほどには振るわず、映画史においてもほとんど注目されてこなかった。そのことは、現存するフィルムが、部分的に、音のみや音がない状態のものを継ぎ接ぎしたような保管状態の悪さからも分かる。
 しかし、1970年代のジェンダー論からクィア論までの理論的蓄積を踏まえて現代から『夏子の冒険』を読み直すと、新たな意味が見出される。戦後の傷跡が残る1950年代の日本では若い女性に期待されることは結婚でしかなかった。主人公の夏子は裕福な家の令嬢で家族から堅実な結婚を期待されていた。しかし、夏子自身はおしとやかな典型的花嫁でもなく、猪突猛進の行動力があり、北海道で熊退治に参加するほどの破天荒ぶりで家族を振り回すことになる。
 中村登は、女性表象を評価されたが、日本映画史において軽視されてきた存在である。発表者はこれまで中村を観光映画作家として捉え直し再評価を試みてきたが、本発表ではジェンダー論を意識し、『夏子の冒険』の女性像と同年に公開された小津安二郎の傑作『東京物語』における女性像を比較分析する。テンポの全く異なる両作品には相違点が存在し、それらを探ることで『夏子の冒険』を新たな観点から日本映画史に位置づける。