日時:2017年7月1日(土)16:00-18:00
場所:前橋市中央公民館5階501学習室

パネル概要

・「環境」からの逸脱──1970年代日本の現代美術における音響技術/金子智太郎(東京藝術大学)
・ モジュレーションと音像──S・P・トンプソンの両耳聴研究をめぐって/福田貴成(首都大学東京)
・ 労働歌の構造と身体動作──野沢温泉村道祖神祭りの胴突唄/細馬宏通(滋賀県立大学)
【コメンテーター】大橋完太郎(神戸大学)
【司会】金子智太郎(東京藝術大学)


 録音入門書にはよくこう書かれている。波の音が前後に動いているように聴こえるのは視覚のためであり、録音を聞いても音量の増減を感じるだけであると。近年の国内外の聴覚/音響文化研究の成果や、それらをふまえた討論を通じて浮かびあがった論点のひとつは、聴覚の他律性だった。聴覚はしばしば視覚や身体運動に導かれ、役割を規定される。聴取や音響技術をめぐる議論でもよく視覚や視覚技術のメタファーが使われ、視覚との対比が強調されてきた。たしかに、五感すべてにこうした他律性を認めることができるだろうが、おそらく視覚以外の感覚にはその傾向がより明らかであろう。そしてこの他律性は感覚の複合性や可塑性のあらわれであり、感性の歴史をたどろうとする議論にとって欠かせない論点であるはずだ。
 本パネルは、耳や音響技術の働きのみならず、他の感覚をふくむ身体全体や、さまざまな環境やモノの作用を通じて、聴取のありかたがつくられていく過程に焦点を合わせる。金子は、日本の現代美術という文脈のなかで音や聴取をめぐる認識がいかに変容したのかを考察する。福田は聴覚をめぐる19世紀の科学史とメディア史に材をとりながら、聴取の近代性の一側面を論じる。細馬は、協働作業における労働歌と身体動作の関係を記述し、聴取、歌唱、動作が分かちがたく結びつく現象を論じる。美術、科学、大衆文化と、各発表の対象領域は多様である。そこで討論ではこれらの議論をふまえて、人間の諸感覚と技術・芸術の協働についての一般的な考察も試みたい。


「環境」からの逸脱─1970年代日本の現代美術における音響技術

金子智太郎(東京藝術大学)

 
 本発表の目的は、日本の1960年代後半から70年代前半における音響技術を用いた美術作品の展開をたどり、そこに表現された音と聴取をめぐる認識がいかに変化していったのかを明らかにすることである。特に大阪万博をはさんで、音響技術を用いた表現には顕著な変化が認められるのではないか。この考察を通じて、戦後日本における音と聴取の歴史の一場面を描くとともに、万博以後の美術におけるテクノロジーとの関わりという問題にひとつの事例を提供したい。
 1960年代後半における音響技術を用いた美術作品の傾向は「環境」概念に集約されよう。当時の文化全般の関心事のひとつだった「環境」は、東野芳明や中原祐介らによって美術理論に導入された。作品のありかたが孤立した物体から、連続的な環境の状態へと移行していくという主張がなされ、音は光や動きと並んでそうした環境の状態のひとつとして理解された。そして、当時の作家たちは既存の録音物や電子音、ラジオを使用して環境を音で満たしていった。
 1970年代になると主に若手作家の作品に、電子音やラジオではなくマイクロフォンを用いて、周囲の音やパフォーマンスの音を取りいれるという方法が見られるようになる。例えば、美共闘周辺の作家はいわゆる「ピンポン録音」を応用した方法を共有していた。万博をはさむこうした変化は、音と聴取をめぐる認識のいかなる変化をあらわしているのか。本発表はこの変化を環境芸術理論の批判的継承として解釈したい。


モジュレーションと音像─S・P・トンプソンの両耳聴研究をめぐって
福田貴成(首都大学東京)

 1878年から1881年にかけて、英国の物理学者シルヴァナス・P・トンプソンは「両耳聴現象について」と題するいくつかの論考を発表している。これらにおいて主に記述されているのは、多様な器具を用いて左右の耳に相異なる音響を供給し、聴覚にいわば「変調」を施すことによって生じる主観的現象の様相であり、またその現象を出来させる要因に関する物理的・生理的・心理的な分析であった。トンプソンのこの研究は、基本的に、同時期における両耳聴研究の興隆のなかに位置づけられるものであり、さらには19世紀を通じての「聴覚的現象の主観性」をめぐる思考の一部として理解しうるものである。一方で、彼の実験観察の報告のうちには、そうした同時代性を超えて、20世紀後半の商用レコード音楽を通じて集団的に経験されることになる現象を先取りしている部分があり、またいわゆる「科学」研究の規矩を食み出して理解すべき点があるようにも思われる。
 本発表では、トンプソンによる一連の報告の読解を通じて、①聴覚的器具の使用によって媒介された聴取主体の特異性をメディア的身体の系譜のなかに正確に位置づけ、②主観的聴覚という思考と「集中」という知覚のモードとの19世紀後半における交渉の様相を明らかにすることを目指す。そうした検討を通じて、彼の報告に胚胎されている時代性や「科学」という枠組みを超えた可能性の一端を指摘したい。


労働歌の構造と身体動作─野沢温泉村道祖神祭りの胴突唄
細馬宏通(滋賀県立大学)

 野沢温泉村の道祖神祭りには、十数mのブナの御神木を数十人の人力によって雪中深く突き立てる「胴突き」と呼ばれる行事がある。雪上に仮に立てられた御神木は、根元近くに取り付けられた井桁を持ち上げる係と、幹の十m付近に結わえられて八方に伸びる「トラ」と呼ばれる綱を引く係の二手に分かれる。井桁係が一斉に井桁ごと御神木を持ち上げた直後に、トラ係が綱を引くことで、御神木は浮き上がり、その反動で雪中により深く刺さる。この胴突きの作業は「胴突唄」と呼ばれる歌に合わせて行われる。「胴突唄」は、年長者によるヴァースと全員の合唱によるコーラスの二部に分かれており、ヴァースとコーラスの前半で御神木を錐揉みするように「揉み」、コーラスの後半で井桁を持ち上げて綱を引く。これらの協働作業のタイミングは、とくにコーラス部分における歌のリズム構造と音韻構造に密接に関係している。本発表では、複数の参加者が合唱する「胴突唄」を、歌唱と聴取とが身体を介して相互に作用し合う現象として捉え直し、歌のもたらす相互行為について論じる。