日時:2016年7月10日(日)16:30-19:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館25号室

パネル概要

・機械技術の文化史――ルイス・マンフォードの反時代的アクチュアリティについて/セバスチャン・ブロイ(東京大学)
・1942年と三木清の技術論/榑沼範久(横浜国立大学)
・歴史は螺旋状に前に進んでいる――ヴァルター・ベンヤミンにおける一回性と反復性の抗争、およびその終焉/髙田翔(京都大学)
・アンビエンテとコンテクスト:建築家エルネスト・ロジャースの「環境」概念について/鯖江秀樹(関西大学)
【コメンテーター/司会】大橋完太郎(神戸大学)

 本パネルは「技術が文化的知の『生産物』であるのか、それとも『条件』であるのか?」という問題を中心に組織される。発展してゆくテクノロジー的状況の中で、人文科学にはわれわれの知的オリエンテーションに貢献することがますます期待されるが、果たして、これまで展開された理論の諸形態は、このような期待に応えるものであろうか。
 いわゆる現代の情報技術のみならず、より古典的な機械技術も含めての「テクノロジーの歴史的発展」において、テクネー(技術・知)とエピステーメ(認識・知)における地殻変動は常に連動した形で現れる。例えば「時計」を例にとるなら、ごく単純なメカニズムであるにもかかわらず人間社会における世界認識を覆す機械が誕生したと言える。同様に、20世紀冒頭に現れるメディア技術もまた、見る・聞く・書くことの条件を深く変化させたと考えらえる。しかし、技術的アーテファクトを中心とする歴史分析がしばしば「決定論」的傾向に走りがちだったことも周知の事実で、その問題は、エピステーメとテクネーの相互作用が一方的に後者の特徴から論じられたことに因る。他方、技術が文化や社会の意思に従う「構築物」に留まらないことも広く共有されている理解である。 
 技術を「道具」として操りながら、われわれの主体性、夢や欲望は技術環境のなかで形成される。とするなら、技術決定論と社会構成主義のアポリアに捉われない理論的展望はますます期待される。そもそも、テクネーとエピステーメの歴史的関係を「対立」として捉えるべきなのか。これら問題を巡って、パネリストはそれぞれの観点から議論を行う。


機械技術の文化史 ルイス・マンフォードの反時代的アクチュアリティについて
セバスチャン・ブロイ(東京大学)

 本発表は、ルイス・マンフォード『技術と文明』の再考を通じて、われわれの現代社会をとりまく技術環境を歴史的に分析するための理論的展望を探る。その核心的な問題関心は、技術の歴史的展開が、単なるアーテファクトや道具を生み出すのみならず、テクノロジカルと呼べる思考様式(Denkform)と生活様式(Lebensform)の誕生と深く結びついている点にある。
 マンフォードの分析では、「時計」を初めとする様々な機械技術が文化に残したインパクトとともに、歴史上の文化様式が技術に残した「かたち」が、相互に関連しあうものとして考察される。なかでも注目すべきは、このような「技術複合体」(Technological Complex)の発展に伴う社会的統御のレジームである。鉱山・工場・戦場という、20世紀における「軍産複合体」の誕生を兆す歴史的風景の中で、進歩と破局の弁証法は絶えず繰り広げられる。そして、この渦の深部で動く「マシン」は、人体と物体の区別が働かないゆえの強力な連結作用を成り立たせる、「知」と「権力」の結節点に他ならない。
 このマンフォードの機械文明論は、フーコーを初めとする多くの批評的歴史家の先駆として、技術と組織と権力の問題に鋭い視野を切り開いたが、また同時に、自らの時代の思潮に束縛されたものでもあった。発表の最後では、マンフォードの論が基づく概念のアーキテクチャーに焦点を当て、マルクスに遡る「疎外論」の系譜や、19世紀の生気論に根ざす「生命」の形而上学の痕跡を浮き彫りにしつつ、今日的な技術環境を歴史化するためには、いかなる理論的展望が必要かと問いかけてみたい。


1942年と三木清の技術論
榑沼範久(横浜国立大学)

 原子核分裂によって宇宙の力を捕獲しようとする諸国家の計画が水面下で進行するなか、1942年7月の座談会「近代の超克」にも参加した菊池正士は、同年12月、「ウラン原子核分裂エネルギー利用研究計画案」を作成する。「近代の超克」では下村寅太郎が、機械を器官とする巨大で精緻な「新しき身体」を捕捉すべく、空前の規模で実験される政治社会的・国家的・神学的方法の必要性を唱えていた。「新しき身体」の要求する危機をめぐる下村の認識は、『一方通行路』のヴァルター・ベンヤミンを彷彿とさせるものだ。他方、三枝博音は1942年3月、編者として『日本科学古典全書』の第1回配本(『産業技術篇採鉱冶金1』)を果たし、三木清は陸軍宣伝班員として南方のマニラに赴任する直前の同年1月に単著『技術哲学』を刊行して『構想力の論理』(1939年)の技術論を補強していた。そして1942年12月には、ルイス・マンフォード『技術と文明』の訳書(三浦逸雄訳)が出る。拡張する十五年戦期の日本・技術論の焦点として「1942年」を選び出しつつ、本発表は三木清の技術論の再読に向う。三木は「複合的行動」の「形の発明」として技術一般を定義するにとどまらず、「多くの迂回の過程」を含んでいるにもかかわらず、その集合的・社会的過程を不可視化することで発達を加速させる「政治」「歴史」に近代技術の特徴を見出していたのだ。こうした三木の技術論は「戦闘の方法」よりも「和解の方法」としての技術を根底に、人間史と自然史との「統一」をはかることにも向けられている。


歴史は螺旋状に前に進んでいる―ヴァルター・ベンヤミンにおける一回性と反復性の抗争、およびその終焉
高田翔(京都大学)

 ヴァルター・ベンヤミンによる「複製技術時代の芸術作品」は、技術と芸術作品の知覚との関係にかんする考察として、現在に至るまで様々に言及されている。そこに描出されているのは、芸術作品に礼拝的価値を見いだす古代からの傾向が、技術の進歩とそれに伴うアウラの喪失によって変容し、展示的価値とよばれる新たな価値へと移行するという、ある種の単線的な進歩史観であるというのが、これまでの一般的な見解である。だが、ベンヤミンの著作群を貫く「一回性」と「反復性」の相互作用という観点を挿入するとそこには、絶えず繰り返される人間の二つの知覚形式の「抗争(Widerstreit)」としての芸術史、という特異な歴史観が前提とされていることに気付く。この歴史観をつうじてはじめて、「複製技術時代の芸術作品」が、歴史における「抗争」の決着の場について考察されている希有な作品であることならびに、ベンヤミンにおける「進歩」が「永劫回帰」の対立項として、とくに後期の著作群の根幹を占めていることが理解される。
 本発表ではまず、ベンヤミンの著作群から、先述の「一回性」、「反復性」という語彙を抽出し、それらの「抗争」という視点を導入する。そのうえで、「複製技術時代の芸術作品」を中心とした後期の著作を精査し、「抗争」へと与える影響をつうじて「進歩」の解明を試みる。くわえて、技術の「進歩」に完全に適応した「新しい人類」への言及に着目することで、ベンヤミンが「進歩」の先にみた可能性を明らかとしたい。


アンビエンテとコンテクスト:建築家エルネスト・ロジャースの「環境」概念について
鯖江秀樹(関西大学)

 本発表では、建築家グループ「BBPR」の中核を担ったエルネスト・ナーサン・ロジャース(1909-1969)が、戦後イタリアの建築論争のなかで提起した「環境(ambiente)」の歴史的意義を検討する。エイドリアン・フォーティは『言葉と建築』(2000)において、この理念が「コンテクスト(context)と英訳されたがゆえに、この国の現代建築が「コンテクスチュアリズム」と混同されてしまったと指摘している。加えて、建築・都市の「記憶」に執着したアルド・ロッシの思考には、ロジャースの「環境」に対する強い批判意識が働いていたという。こうした理解の食い違いがあるとするなら、1950年代に《カーサベッラ-コンティヌイタ》誌で展開されたロジャースの建築理論を現代建築史の文脈のなかで改めて検討する価値があるだろう。 そもそも「環境」なる語は、それを語る論者によって異なる意味づけを与えられる曖昧な概念であった。批評用語としてそれが「復興」や「開発」、「インスタレーション」や「実験」、さらに現在一般化したエコロジー的意味に分岐・定着していったのが1970年代だとすれば、こうした国際的なデザイン史・社会史を視野に収めながら、ロジャースの「環境」を問い直す必要もある。「奇跡」とも謳われた経済復興を遂げ、アメリカ的な消費文化が急速に浸透していくイタリアにおいて、ひとりのモダニストがモダニズム建築をいかに再構築しようとしたのか――上記ふたつの観点から議論してみたい。