日時:2016年7月10日(日)10:00-12:00
会場:立命館大学衣笠キャンパス 以学館24号室
パネル概要
・バタイユにおける思考のエロティシズム/横田祐美子(ストラスブール大学)
・メルロ=ポンティの窪みの現象学/黒澤由里
・『リビドー経済』における「隠蔽」概念について/渡邊雄介(早稲田大学)
【コメンテーター】松本卓也(京都大学)
【司会】加國尚志(立命館大学)
「エロス」は性愛を意味する語として広く理解されており、古くから絵画や文学作品において主題的に描かれてきた。現代思想史では、精神分析学者フロイトの提唱した「生の欲動」としての「エロス」がとりわけ知られており、彼の理論は20世紀の哲学、主としてフランス現代思想に強い影響を与えている。他方で、「エロス」に関する議論は古代ギリシアのプラトンにまで遡ることができる。彼によれば、それは自身に欠けているものに対する欲求であり、ひいては知を求め、真理へと向かう魂の働きである。そのため、「エロス」は愛知としての哲学を語る際に無視しえない概念であるといえるだろう。
このような文化的・思想史的背景をもつ「エロス」を、フランス現代思想に位置づけられる思想家たちはどのように論じているのだろうか。そして、彼らの著作に見受けられるエロティックな表象は、いかなる哲学的な問いを孕んでいるのだろうか。本パネルでは、こうした問題意識に基づき、バタイユの思考のエロティシズム(横田)、メルロ=ポンティの窪みの現象学(黒澤)、リオタールのリビドー経済(渡邊)を、各思想家におけるエロティックな表象を出発点として論じることとする。それによって、三者における「エロス」の問題が、これまで語られてきた「エロス」に関する哲学的伝統をいかなる仕方で継承し、あるいはそこからいかなる差異化を図っているのかを明らかにしたい。
バタイユにおける思考のエロティシズム
横田祐美子(ストラスブール大学)
本発表の目的は、ジョルジュ・バタイユの「思考」の問いを「エロティシズム」という観点から捉え直すことで、彼の思想を哲学・思想史の流れのなかで再定義することである。
周知のとおり、バタイユの「エロティシズム」は存在の「連続性」の回復を目指すものとして「禁止と侵犯」の問題系のなかで論じられてきた。だが、これに回収されない「エロティシズム」の問題を、われわれは彼の思索のうちに見いだすことができる。それは、『瞑想の方法』で「わたしはまるでひとりの娼婦がドレスを脱ぐように思考する」と表現された「思考」と「エロス」の問題である。ジャン=リュック・ナンシーはLa pensée dérobéeでこの両者の関係を取り上げ、バタイユのいう「思考」を、おのれ自身から逃れる思考、思考それ自体の「退引」の運動として解釈している。しかしながら、このような読解が可能である反面、バタイユの「思考」は不断に引き退きながらも、彼にとって根源的な絶対者ともいえる「未知のもの」へと接近しようとしたのではなかったか。そのため、バタイユの「思考」と「エロス」の問題はプラトン以来の「エロス」概念にも接続されうる側面をもっている。
本発表では、上述した問題背景を踏まえながら、バタイユの「思考」の「エロティシズム」が有する両義性を明らかにし、根源的な絶対者という伝統的な哲学の問題に対してバタイユがいかなる態度をとっていたのかを検討する。
メルロ=ポンティの窪みの現象学
黒澤由里
メルロ=ポンティの哲学に「エロティシズム」の問いが内在していたかどうかは甚だ疑わしい。彼自身の著作にこの語を見つけることが困難を極める以上、そんなものは存在しないという意見が大多数であろう。だが、こうした状況のなかで本発表は、彼の現象学的美学・存在論的美学の視座を掘り下げることで、彼の哲学における「エロティシズム」の可能性を探ることを試みる。この視座は、厳密な体系を築き上げることなく多義的な状態そのままに、あらゆる顕れに触れ続けることで円環的に紡ぎ上げられているものである。そして、そのなかでメルロ=ポンティが論じる「窪み(creux ; cavité)」の様態にこそ、彼にとっての「エロティシズム」を定義する糸口を見出すことができるだろう。
ある芸術(事象)に我々の意識が向かい、そのものに心を揺り動かされるということ。そして、その事象を把握し尽くすことができなくとも、己の意識がそこへ向かう力には抗いきることが出来ず、むしろそこへ辿りつきたいと終わりのない努力をし続けるという渦に自分自身が意識的に巻き込まれていかざるをえないということ。それでありながら、己を「逃れ」るという「存在の裂開」がおこり続ける反省的否定的態度をとり続けるということ。そこには、一体どのような意識を背景とした体験が隠されているのだろうか。本発表では『見えるものと見えないもの』を中心に、こうした問いを「エロティシズム」との関係から検討する。
『リビドー経済』における「隠蔽」概念について
渡邊雄介(早稲田大学)
ジャン=フランソワ・リオタールは『リビドー経済』(1974)において、「構造(structure)」と「情動(affect)」の関係を「隠蔽(dissimulation)」として論じた。本発表では、この「隠蔽」関係が『リビドー経済』において「売春」の形象において思考されたことに注目しつつ、リオタールが記号の強度化をいかに思考したのかを分析する。
「構造」とは、「このもの」と「非-このもの」とが明確な境界線を形成することで機能する表象の空間として定義される。対して「情動」とは、欲動エネルギーが諸表象に働きかける際、エネルギーがそれらへの備給と置き換えのなかで持つ名であると言われる。そして「隠蔽」とは、「構造」が「表象」を介して「情動」を覆い隠すことである。本書においてこの「隠蔽」関係のモデルとなっているのは、フロイトにおける「エロス」と「死」の関係である。しかし、「エロス」には「寄せ集めて拘束する」といった機能が結びつき、「死の欲動」には「攻撃性」が結びつくと言ったような二元論的モデルはリオタールよって却下される。重要なのは、フロイトが「死の欲動は<エロス>のざわめきのなかで沈黙のうちにはたらく」という場合に含意される、「エロス」と「死の欲動」の二重性である。本発表では、この「二重性」や「隠蔽」を肯定するリオタールを分析し、単なる相対主義とは異なるリオタール像を提示したい。