日時:2015年11月7日(土)午前10:00-12:00
場所:東京大学駒場キャンパス21KOMCEE(East 2F-212)

・辻 佐保子(早稲田大学)「「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」のあわいで―ミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー』における形式の趣向に対する考察」
・平芳裕子(神戸大学)「モデルに倣う―ファッションにおけるパターンの出現」
・本田晃子(早稲田大学)「ガラスの社会主義リアリズム――フルシチョフのソヴィエト宮殿計画案をめぐる考察」

司会|北村紗衣(武蔵大学)

辻 佐保子(早稲田大学)「「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」のあわいで─―ミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー』における形式の趣向に対する考察」

 劇作家ベティ・コムデン&アドルフ・グリーンの舞台作品は、「前時代のご都合主義なミュージカル・コメディの残響」という理解にとどまり、長らく研究対象とされてこなかった。活動初期(1938-1945) に焦点を当てた近年の研究では、リベラルな政治指向の作家として彼らは位置づけ直されている(Carol J. Oja, 2013)。しかし、先行研究からはコメディ作家としての特性や、作品のポテンシャルが掬い上げられているとは言い難い。
 本発表では、二作目のミュージカル『ビリオン・ダラー・ベイビー、イカした1920年代についてのミュージカル・プレイ』(1945) に見られる形式の実験を作品分析から明らかにし、その意義をミュージカル史の文脈で考察する。1920年代後半を舞台にした本作は、ヒロインがアメリカン・ドリームを三度に渡って叶え損ねるというシンプルな物語を有する。しかし形式に着目すると、本作は一貫したスタイルではなく、1920年代から上演時に至るミュージカル・シアターの変遷を踏まえた三つのスタイルで叙述されていることがわかる。複数のスタイルで語ることを通じて何が試みられているのか。以上の問いを経て、「ミュージカル・プレイ」と副題が付された『ビリオン』から、「ミュージカル・プレイ」と「ミュージカル・コメディ」とにジャンルを腑分けし序列を構築する上演時の力学に対する批評性を見出すことを目指す。


平芳裕子(神戸大学)「モデルに倣う─―ファッションにおけるパターンの出現」

 パターンとは、衣服制作において布を裁断するための型を指す。印刷された縮図や実物大の薄紙など様々であるが、消耗される道具ゆえに現存するものは数少ない。従来行われてきたのは実証的パターン研究であるが、本発表では雑誌に掲載されたパターンを取り巻く言説・イメージの分析を通じて、パターンの出現がファッションと女性の関係にもたらした変容について考察する。
 雑誌の表象として残されたパターン普及の跡は何を意味するのだろうか?本発表では、19世紀アメリカの女性誌を分析の対象とし、1850年代から60年代にかけてのサプリー夫人やデモレスト夫人の専門店から、1860年代後半に登場するアメリカ初のファッション誌『ハーパース・バザー』へと繋がる、パターンの考案、改良、頒布の変遷をたどりつつ、爆発的に普及していくパターンが当時の女性たちにもたらした意識と行為の変化を跡付けたい。
 その変化とは端的に言えば、「モデルに倣う」意識の誕生である。パターンは、既製服産業とオートクチュール産業に先駆けて家庭内に流入した。女性たちは型通りに服を作ることで流行のスタイルを手に入れる。「モデルに倣う」という振舞いの習慣化は、パターンによる家庭裁縫が廃れてもなお、女性たちを流行へと駆り立てる。その意味において、「モデルに倣う」意識を誕生させたパターンは、服飾の近代化を印付けるものであるのだ。


本田晃子(早稲田大学)「ガラスの社会主義リアリズム――フルシチョフのソヴィエト宮殿計画案をめぐる考察」

 1930年代に計4回開催されたソヴィエト宮殿設計競技は、ソ連建築の転回を決定づけた出来事だった。このコンペにおける幾度もの審査と再設計の過程を通して、1920年代のアヴァンギャルド建築の多様な活動は否定され、社会主義リアリズムと呼ばれる唯一絶対の規範が確立されたのである。けれども1953年のスターリンの死と、それに続フルシチョフのスターリン建築批判は、状況を一変させた。スターリン建築の頂点たるソヴィエト宮殿は「過剰装飾」や「虚偽のモニュメンタリティ」の名の下に断罪され、以降同様の様式でもって設計することは不可能になった。そしてそれに代わる新しい建築様式の選定の場となったのが、再度のソヴィエト宮殿設計競技だった。新生ソ連邦を象徴するこの新しい宮殿の建設は、フルシチョフによるクレムリンからモスクワ南西(ユーゴ・ザーパド)地区への首都機能移転計画の目玉となるはずであった。だがスターリンのソヴィエト宮殿同様、このフルシチョフのソヴィエト宮殿もまた、実際に建設されることはなかった。
 本報告では、同時期のパヴィリオン建築(ブリュッセル万博ソ連邦館、ソコリニキのアメリカ・パヴィリオン)や新ソヴィエト宮殿周辺に計画されたモニュメント(パンテオンおよびレーニン記念碑計画)などとの関係から、新しいソヴィエト宮殿のデザイン、ひいては新しいソ連建築の規範がいかに規定・形成されたのか(あるいはされなかったのか)を論じる。