日時:2015年7月5日(日) 14:00-16:00
会場:早稲田大学戸山キャンパス32号館1階127教室
パネル概要
現在私たちが生きる新自由主義のパラダイムを見事に描き出した『資本主義の新たな精神』においてL・ボルタンスキーとE・シャペロは、資本主義の破壊的傾向に立ち向かう際に重要となる「批判」の二つの側面を「社会的批判」と「芸術家的批判」に大別した。労働環境・労働条件における搾取や貧困などの不平等に対して向けられるとされる「社会的批判」は、近年の日本においても見られるようになってきた。だがその一方で、あらゆる抑圧の形態に対して向けられる「芸術家的批判」は、権威の否定、女性や自然の解放といった内容が70年代以降の資本主義の形態の変化によって巧妙に回収されることにより、現在のところ顕在化しえていない。その時々の資本主義の形態に従って要請される(再)生産労働は、人々の生/性の在り方を規定し、そこにおける彼/女たちの日常生活──それは資本主義形態の地政学的な現れとしての田舎と都会という想像力において営まれる──は葛藤の場として現れる。このような葛藤は、本パネルが分析対象とするテクストに刻印されており、その複雑かつ豊穣な表象は未だ汲み尽くされていない。本パネルでは、人間の生そのものの商品化に抗する「芸術家的批判」と当座のところ呼びうる批判を戦後のいくつかの芸術実践に見出しつつ、真の自由を追求する批判がどのように潜在的な形で営まれ、それらが現在においてどのように救済可能かを思考する。
西亮太(中央大学)
「異族」との連帯のために──森崎和江の労働運動論と「エロス」のゆくえ
本発表では、戦時下の朝鮮半島で生まれ育ち戦後の北九州で先鋭的なサークル活動を行った森崎和江の70年代半ごろまでの著作を扱う。この時期は、もと炭坑労働者の女性たちへの聞き書き『まっくら』から、代表作『からゆきさん』に至るまで、出版面では質・量ともに豊かな時期であった。だが実生活では鉱山閉鎖に伴うサークル活動の行き詰まりや組織化に専心する谷川雁との対立などで心身ともに疲弊し、苦慮を重ねる時期でもあった。このことは同時期のテクスト群の内容と形式双方にみられる過剰なまでの先鋭性に確認することもできる。
森崎の議論はフェミニズム的視角の鋭利さにより、これまで家父長的労働運動への批判という点が注目されてきた。もちろん運動内部の男性による排他的集団性も女性たちの内部を走る分断線も、さらには「田舎」の先鋭性を「都会」で説く谷川も批判されるべきなのだが、当時既に失われつつあった合理化以前の坑内についての聞き書きから思考を始めた森崎にとって、女性も働いたかつての坑内で育まれた「エロス」や生活の総体としての特異な「文化」の残滓は、それら運動内外の行き詰まりの中でも完全に失われたわけではなかった。この延長線上にこそ、後に先見的フェミニストと評価された森崎の思想が位置づけられるべきだ。本発表では以上を確認しつつ、テクストの精読を通じて異者たちの出会う想像的空間の追及を一貫したテーマと捉え、その現代的意義を探る。
田尻歩(一橋大学)
「生ぬるい春のような、出口のない閉ざされた天国」──赤瀬川原平の諸著作における都市と芸術
本発表は、赤瀬川原平の初期の政治的な芸術的ヴィジョンと、80年代に展開される「超芸術トマソン」における都市を題材とした活動のあいだの変化と連続性を考察するものである。近年、社会運動の観点から赤瀬川の活動を評価した高祖岩三郎の「たのしやおかしやおそましや」(2014)や、赤瀬川の初期の詩・小説から集団的実践のユートピア的ヴィジョンを析出したウィリアム・マロッティのMoney, Trains, and Guillotines (2013)など、60~70年代はじめの政治的実践を再評価する潮流は見られるが、それを70年代前半以後、社会運動全体が急速に勢いを失ったあとの赤瀬川の活動との連続性を思考しようとする論考は少ない。いまだ建物の部分として付属・保護されながらもその建築の本来の機能から外れ無用となった「物件」を、作者のいない「超芸術」として赤瀬川が初めて発見したのは1972年だが、60年代末には、批評家松田政男らにより、東京オリンピックや大阪万博などを契機に進む経済成長のもとで広がっていく均質化された風景を批判した「風景論」が展開され、そのような都市批判の言説に赤瀬川も触れていた。本発表では『オブジェを持った無産者』、『鏡の町 皮膚の町』などにおける都市の表象を確認した後、それを背景に、1982年から本格化する「超芸術トマソン」の活動をメディア横断的な集団的実践として分析し、(現在にまで続いている)イデオロギー的後退のなかでどのように芸術実践が試みられたかを考察する。
佐喜真彩(一橋大学)
「オンナ」たちの傷の否認を超えて──崎山多美「見えないマチからションカネーが」を中心に
本発表は、沖縄の現代小説家・崎山多美(1954-)の諸作品に特徴的である「音」の描写に注目しながら「見えないマチからションカネーが」(2006)を中心に読解することで、現代の文化批評の課題を再考する。崎山の描写する「音」の表現はこれまで他者の声の回帰として多くの関心を集め、その解釈は様々になされてきた。しかしそれらの批評のほとんどは、沖縄が戦後置かれてきたコロニアル的状況によってもたらされ目を背けられてきたもの(他者)に、所与の「特殊性」(所与の民族性・女性性・欲望)を見出し、その承認を求めるという多文化主義言説に陥りがちである。こうした批評は、ソ連邦の崩壊を契機としたイデオロギー対立の消滅によって深刻化した、多様な文化を奨励しながら進むネオリベラリズムへの批判が欠落しているため、逆説的に現在の資本主義の発展を補完する形で回収されてしまう。
崎山の小説における「音」は、むしろ所与の「特殊性」というカテゴリーに症候的に現れる「現実的なもの」であり、具体的にそれは、資本主義の進行に従って顕在化しづらくなる「女性」達の傷の顕れとして表現されている。本発表では、「音」の描写が直接的にはほとんどみられない「見えないマチからションカネーが」を中心に考察するが、そこでの女性達の葛藤が他の作品の「音」の描写と不可分ではないことを提示する。これを通して、ネオリベラリズム下における文化的応答の意義を模索したい。