日時:2015年7月5日(日) 10:00-12:00
会場:早稲田大学戸山キャンパス32号館1階127教室

パネル概要

家族を題材とする日本映画の研究には、既に多くの蓄積がある。家族史研究をもとに映画における家族イメージの変遷を跡づけた試みや、映画作品の読解を通じて家制度を礎とした戦前(ないし戦後)の国民国家と家族との繋がりを検証する試み。或いはT・エルセサーの先駆的論文から展開されたファミリー・メロドラマ研究を、日本映画を素材として更に発展させようとする試みなど、枚挙に暇がない。しかし、これら先行事例は、映画(テクスト)の分析を通じてより広い社会状況(コンテクスト)の分析へ、といった視座を共有していた。
これに対し、本パネルでは「映画的問題の格闘の場としての家族」に着目する。1937年の小津映画における家族は、トーキー二作目の小津にとって音声という手懐けられないものとの格闘の場であり、近親者で製作陣を組んだ1956年の木下恵介による家族映画は、商業用物語映画とホーム・ムーヴィーの境界を攪乱する場であり、また1960年代の原爆映画における家族は、メロドラマ形式の流用と逸脱によって原爆映画というジャンルが問い直される場である。このように、家族を映画の形式や製作、ジャンルの格闘の場として見た上で、他方その格闘が日本的夫婦のイメージへと結実したり、クィアなものによる異性愛主義規範の解体の契機をも孕んでいたり、被爆者と結婚をめぐる排除/包摂関係の証左となっていることにもまた注意を払う。

正清健介(一橋大学)
小津安二郎『淑女は何を忘れたか』における音声の問題──関西弁と東京弁の対立をめぐって

本発表は、小津安二郎のトーキー2作目である『淑女は何を忘れたか』(1937)において発話される関西弁に着目し、小津がトーキー初期、音声という新たな要素を、家族という題材でもっていかに自身の映画に取り込んだかを明らかにするものである。
本作品では、東京・山の手の夫婦の不和が描かれているが、この夫婦を円満へと導くのが大阪から来る姪の節子(桑野通子)という登場人物である。妻・時子(栗島すみ子)は、節子の無軌道さを東京弁で叱りつけ、節子はそれに関西弁で反発する。この東京弁/関西弁という声の対比は、時子が和室に和装で現れ、節子が洋室に洋装で現れるという映像の対比と同調しており、物語上での二人の対立関係は、音声と映像双方によってはっきりと示されている。節子は、洋室の書斎を持ち洋装で現れる夫・小宮(斎藤達雄)と協力・共犯関係を結び、小宮を鼓舞する事で時子に対して暴力を振るわせ(平手打ち)、小宮に不和の原因であった失われた家長としての威厳を取り戻させる。ラストシーン、夫婦の円満は、和室に和装の小宮と時子が相似形で並ぶという形で、映像によって示されている。このように本作では、物語上の様々な人物関係が映像によって描かれている中、対立という関係が描かれる際において音声が効果的に使用されている。小津がサイレント的な表現から脱却を図り、音声を導入するに際してまず利用したのが対立という構図であったのだ。


久保豊(京都大学)
木下惠介『夕やけ雲』におけるクィアな眼差し──ホーム・ムーヴィー概念の脱構築の可能性

戦後の日本社会においては、1965年にスーパー8やシングル8などの比較的安価な家庭用映画キャメラと関連機材が発売されるまで、一般的な家族が家庭でホーム・ムーヴィーを撮影することは困難であった。他方で、1940年代後半、そして日本映画産業の第二次黄金期であった1950年代には、家族に焦点を当てた商業用物語映画が多く生産された。ホーム・ムーヴィーを撮影することが困難であった観客は、それらの映画に登場する家族に自分たちの家族との思い出を同一化させ、映画館で笑い、涙したのであろう。とりわけ、木下惠介監督による『喜びも悲しみも幾歳月』(1957)は、商業用物語映画でありながら観客のホーム・ムーヴィーとなりうる作品として大衆に受け入れられ、ホーム・ムーヴィーの新たな側面に光を当てた。
しかし、木下監督は、『夕やけ雲』(1956)において、既にホーム・ムーヴィーの多面性を見出だしていたのではないだろうか。すなわち、本作品は、木下の近親者によって製作チームが組まれたうえ、作品中には同性愛的親密性を読み解くことができるなどの特徴がみられる。製作チームが家族といえる点、また、異性愛主義規範に囚われない作品内容である点において、本作品は既存のホーム・ムーヴィーの概念を脱構築する可能性を有している。
本発表は、ホーム・ムーヴィーの商業用物語映画としての可能性に言及したうえで、『夕やけ雲』から窺える木下のクィアな視点の分析を試みる。


片岡佑介(一橋大学)
1960年代純愛映画にみる被爆(者)表象と恋愛結婚イデオロギーの構築

今井正『純愛物語』(1957)を嚆矢とし、1960年代には若い男女の恋人のいずれかが原爆症を発病し離別するという定型的なプロットを持った映画が製作され始める。この「純愛映画」では、「原爆乙女」やケロイド、白血病や原爆ドームといった被爆(者)表象がパターン化されるとともに、当時流行した白いエプロンや団地のショット、そして登場人物が交わす結婚の約束を通じて、恋愛結婚が理想化されている。胎内被爆や被爆二世問題が喧伝されていた当時、現実の被爆者は遺伝を理由に結婚差別を被ることがあった。その被爆者が、純愛映画においては一方で恋愛結婚イデオロギーを促進させ、他方そこから排除されるものとして構成されていることを、メロドラマ映画研究、および恋愛結婚と優生思想の結びつきを検討した社会学の著作を手掛かりに検証する。
次に、吉村公三郎『その夜は忘れない』(1962)や若松孝二『壁の中の秘事』(1965)など、バーのマダムや団地妻がヒロインを務める作品において、純愛映画の形式が踏襲されながらも恋愛結婚の理想が破綻していること、ならびに鏡像による声と映像の分離などの試みを通じて典型的な被爆(者)表象が問い直されていることを確認する。以上の作業によって、1960年代の純愛映画における被爆(者)表象と恋愛結婚イデオロギーの構築および逸脱を明らかにし、その意義を原爆映画史の文脈で考察することが本発表の目的である。