PRE・face

日本を東アジアの文脈に開く
中島隆博

このところ、日本哲学・日本思想に関わることが多くなっている。三月にはWhither Japanese Philosophy? Reflections through other Eyes (edited by NAKAJIMA Takahiro, UTCP Booklet 11, Tokyo, 2009)を編集・出版したし、五月にはFrontiers of Japanese Philosophy 4: Facing the 21st Century (edited by LAM Wing-Keung and CHEUNG Ching-yuen, Nanzan Institute for Religion & Culture, Nagoya, 2009) に拙稿を掲載してもらった。そして、来年の始めにフランスで、日本哲学の主要テキストと解題をつけた書物が出版され、そこに荻生徂徠に関する拙稿が掲載される予定である。

こう述べると、わたしがいかにも日本哲学・日本思想を専門に研究しているように聞こえるが、決してそうではない。あくまでも専門は、中国哲学・中国思想である。そのために、このような事態に巻き込まれたことにかなり戸惑っているというのが事実である。ではいったい何が起こっているのか。

謎を解く一つ目の鍵は、上に上げた書物がすべて外国語によるものだということにある。当たり前のことだが、日本哲学・日本思想を研究する場所はもはや日本だけではなく、アジアから欧米まで広く世界に及んでいる。海外の研究者は、日本語だけでなく、日本語以外の言語でも日本哲学・日本思想を表現している。ところが、日本の研究者は、外国語で表現された日本哲学・日本思想の研究成果をなかなか受容しないし、自ら外国語を用いてそうした海外の研究者と積極的に交わろうという人は多くない。このことは、日本での外国哲学研究を考えてみれば、よくわかるだろう。日本語で高い水準の哲学研究がなされていても、それを当該の国の哲学研究者がどこまでフォローしているかというと、甚だ心許ない、ということである。したがって、海外の日本哲学・日本思想研究者にとって、日本語以外の外国語を用いて日本哲学・日本思想研究を共有する場所と人が日本にあることは極めて重要なことになる。ところが、現実にはそうした場所と人はなかなか見つからないため、さしあたって、グローバルCOEという名のもと国際的な環境で哲学研究を展開しているUTCPと、その中で東アジア哲学を担当しているわたしのところに話が来たということであろう。

しかし、鍵はもう一つある。それは、日本哲学・日本思想を東アジアの文脈に置き直すということである。海外の日本哲学・日本思想の研究者と話していて気づかされるのは、彼らが日本哲学・日本思想を孤立した現象として扱っておらず、中国や韓国との対比において考えているということだ。たとえば、西田幾多郎に代表される京都学派は、日本における哲学のモダニティーを示すものだが、それは中国近代の新儒家と呼ばれるグループとどのような差異と同一性があるのかに関心が向けられている。あるいは、たとえば日本儒教と中国儒教あるいは韓国儒教を対比し、日本儒教の特異性はどこにあるのかが問われている。ところが、日本での日本哲学・日本思想研究では、京都学派の哲学を近代西洋哲学と対比することはあっても、同時代の東アジア哲学・思想と対比することはなかなかなされない。また、日本儒教の特異性についても、前近代のものはある程度比較研究がなされているが、近代になるとほぼ手付かずである。この点で、わたしのような中国哲学・中国思想の研究者が、日本哲学・日本思想の研究に加わることが必要とされたのだろう。

以上のことは、しかし、日本哲学・日本思想研究にのみ限られた話ではない。表象文化論研究においても、まったく同じことが問われているのではないだろうか。つまり、西洋近代の知のあり方を批判的に捉え直しながら、日本を東アジアの文脈に置き直し、表象文化論の一つのアリーナを設定することが、いまや喫緊の事柄になっているのではないだろうか。日本近代の芸術や文学そしてパフォーマンスを、このような観点から研究している海外の研究者はおそらく少なからずいるはずである。そうした海外の研究者と切り結びながら、独自の視点を打ち出す若い研究者が次々に出てくることを、この学会において大いに期待したい。

2009年8月
中島隆博(東京大学)