新刊紹介

和田忠彦
『ファシズム、そして』
水声社、2008年10月

<同時代性>との並走

美しい装丁(松浦寿夫画)がひときわ目を惹く本書には、エーコやカルヴィーノの翻訳で名高い筆者が、「ファシズム/モダニズム」という主題をめぐって書き継いできた論考、訳書や論集の解題、時事評論などが収められている。

全体主義と近代性との関係を再検討しようという気運が高まるなか、特異な近代化を経験したイタリアが、改めて脚光を浴びつつある。収録された各文章は結果的に、近年のこうした動向を先取りしていたと言えるのだが、それ以上に注目すべきは、本書が稀有な「同時代文化論」だということである。

たとえば第一部「<ファシスト>たち」で取り上げられる、ボンテンペッリやサヴィーニオ、カンパニーレなどは、イタリア・ファシズムおよびモダニズム文化研究という舞台上で、どちらかと言えば脇役に甘んじてきた作家たちである。映画や美術、詩については、本国イタリアで必ずしも評判が良くない作品をあえて議論の俎上に載せる場合も多い。だが、どちらにせよそれらが、イタリアという国家、文化、アイデンティティーの枠組にすっぽりと収まることはない。このことは、先に挙げたマイナーな登場人物たちがいずれも、ジャンルや言語の横断/越境をみずからに課した表現者だということからも明らかである。とはいえ、特筆すべきは、かれらの特異な経験を、忠実に再現するのではなく、その生涯と作品、そして歴史的文脈を読み解きつつ再構成する、著者の一貫した手法である。それが描き出すのは、すぐれて重層的かつ多様な文化の相貌にほかならない。たとえば第二部「断章」に収録された短い文章群では、戦時下日本のイタリア受容や、パゾリーニの「死」をめぐる論争など、歴史の渦のなかで忘れ去られたもの、見えにくくなってしまったものを、批評言説をたよりに解きほぐすかと思えば、トリノ・オリンピックと未来派、映画史と文学史など、異質なものが接合されることもある。このように、卓抜な「モンタージュ」を駆使して、文化の複数のヴァージョンを映し出すことが目論見であるなら、筆者が強調する<同時代性>とは、20世紀という時代に批評的なまなざしを送りつづける、わたしたちの方にあるのだと言えよう。

読者に開かれた未解決の問題が、本書の至る所に散りばめられているのは決して偶然ではない。イタリアの越境者たちとともに、<同時代性>との並走をみずからに課した筆者の問いかけを真摯に受け止めるとすれば、その第一歩は、「ファシズム、そして」のあとに続くことばを捜し求め、「変奏する自画像」のさらなるヴァージョンを丹念に描き込んでいくことなのかもしれない。(鯖江秀樹)