写本の文化誌 ヨーロッパ中世の文学とメディア
テキストにおけるメディア革命と言えば、なんといっても印刷術の発明である。大量生産が可能になった本により、それまで社会の上層階級に独占されていた知は広く世の中に普及し、宗教改革を始めとする各種の社会変動を引き起こした。しかし印刷術は知の大衆化を推し進めただけではない。それまでの手写本とは異なり、活字を並べて版上に固定し、紙の上に押しつけて作られる印刷本は、「変更不可能な唯一のテキスト」という感覚をわれわれにもたらした。作者の最終稿は著作権によって守られ、世界中の読者がみなまったく同じテキストを共有する。印刷本文化の中で育ったわれわれは、そのようなテキストのあり方に何の違和感もなく慣れ親しんでいるわけだが、グーテンベルク以前のテキストはそうではなかった。テキストを書写する書記には注意深い者、おおらかな(ずぼらな)者と、さまざまなタイプが存在したが、現代のわれわれほどに、元のテキストを一言一句変えることなく書き写すことにこだわる書記はいなかった。写本ごとに異同はあっても、どれか一つが正しく、それ以外は書き間違いか悪意の改作ということではなく、テキストはそもそも可変性を持つものと捉えられていたのだ。
いまテキストは急速に紙の本からデジタルデータへと、その記録の形態を変えようとしている。インターネット上で不特定多数の作者が、その都度変更を加えながらテキストを作り上げていくことが可能になった現在、テキストの有り様は写本時代のそれに回帰しようとしているのかも知れない。中世の写本文化をテーマとした本書の根底には、そのような問題意識がある。
とはいえ読んでいて楽しいのは、写本製作の具体的な作業が詳述されるところだろう。本書はまず羊皮紙や羽根ペン、インクなどの製作法から、書記や編集者、挿絵画家の仕事、写字室の概要など、写本の製作過程を詳細にたどっていく。さらに注文主や読者層の成熟、写本が「物」として持つ価値といった外的な条件によって、俗語文学が誕生していく経緯が、いくつかの写本をもとに解き明かされる。特に写本に残される「落書き」や描きかけのミニアチュールは、これまでの文学研究で見過ごされてきた書記、編集者、挿絵画家など、作者とともにテキストに関わった人々の息づかいを感じさせてくれる。それを伝える美しくまたどこかコミカルな図版は、中世文学を一気にわれわれに引き付けてくれるはずだ。
(一條麻美子)