トピックス 1

第7回表象文化論学会授賞式

選考委員コメント

沼野充義

本年の学会賞に推薦された三冊は、すべて博士論文をもとにした単行本だが、それぞれの持ち味と専門性を活かした優れた著作になっており、いずれも称揚されるべき長所があったと思う。若手・新進研究者にとっての記念すべき第一歩が、このような著書の形で結実したことを何よりも寿ぎたい。

それを前提としたうえで、多少の不満や要望も含めて、これら三作についての感想を簡単に述べておく。

まず大久保遼『映像のアルケオロジー――資格理論・光学メディア・映像文化』は、おおよそ江戸末期から二〇世紀初頭までの日本を舞台に、西洋から光学装置や視覚理論がどのように取り入れられて既存の文化と衝突しながら新しい映像文化を生み出していったか、丹念に調べたうえで、歴史的・理論的な枠組みをそこに与えようとした試みである。映画や写真といった「メジャー」で、すでにチャートもかなり出来上がっている視覚芸術のジャンルをあえて避け、写し絵、幻燈、連鎖劇とキネオラマといった言わば傍流のジャンルを精力的に探索したという点では、誠に博士論文らしい堂々たる本であり、この分野に昏い私は教えらえることばかりであった。その一方で、このアプローチを取るならば、さらに考えなければならないこともあるのではないか、という感想も持った。このような労作に対するないものねだりであることを承知のうえであえて書いておけば、たとえば、新しい視覚理論や光学メディアの影響は狭く映像芸術だけに限られるわけではなく、その他の芸術・文学全般に大きな影響を与えていたはずであり、視覚の変動をもう少し広いコンテクストで検証できたのではないか。また、近代以前の日本の伝統的な「視覚」の伝統との関係を(どの程度の連続性・継承性があり、どの程度の切断があったのか)もう少し論じられれば、日本の近代の特徴がよりくっきりと浮かび上がったのではないか。クレーリーを援用しながら、日本では一八九〇年代に決定的な転換があったとする見方も、いまのままでは借りてきた理論を当てはめてみたという感じがどうしてもしてしまい(その主張自体はおそらく間違っていないのだろうが)、「あっけない」結論になってしまったという印象を拭えなかった。

次に浜野志保『写真のボーダーランド』は、極めて独特な視点からの写真論である。この分野にも(申訳ないことに)詳しくない私などがさかしらに論評できることでもないのだが、写真論というととかく、ベンヤミンに始まって、バルト、ソンタグ、バッチェンなどの名前が頻繁に登場するものが多い中、本書が探索した領域は異色である。心霊写真、妖精写真、ダウジング、念写といったオカルト的、あるいは幻想的、ないしは疑似科学的な「ボーダーランド」に著者は分け入り、見えないものを写そう(見よう)とする写真の「魔術的」とも呼ぶべき働きの源泉を探ろうとした。「写真と「幽霊」の間には、共通点がある。それは、どちらも中間的な存在だということである」といった観点に、著者の姿勢ははっきり現れている。個人的には私はこの種のオカルト的領域の探索は嫌いではない。だが本書の場合、それぞれのトピックが非常に興味深く紹介、整理されていて、読み物としては実に魅力的なものになってはいるが、「研究」として(例えば新資料などを使って)何かを新たに発見、論証したという性格の著作にはなっていないように思った。カルヴィーノとSF映画という二つの「フィクション」を引用して終章を結んだことも、本書を写真研究書というよりは、幻想文学評論に近づけてしまっている。もちろん、それが悪いわけではない。種村季弘、高山宏といった偉大な先駆者の精神を部分的にであれ引き継ぐ、極めて魅力的な本ではあるので、「奨励賞」の可能性も考えないではなかったが、浜野氏は我々に「奨励」されるよりは格が一枚上の、すでに出来上がった著作家である。

最後に、田口かおり『保存修復の技法と思想』。芸術作品の保存と修復について、主としてチェーザレ・ブランディの理論をもとに、「可逆性」「判別可能性」「適合性」「最小限の介入」といった、二〇世紀に保存修復の原則として掲げられるようになった指標を、豊富な作品と文献を使いながら、整理・分析していく。一読して(これまたこの分野にはまったく無知な私なので)、全体にブランディの理論に負いすぎているのではないか、これではブランディ理論の解説書に近いのではないか、ブランディ一人がそれほど偉いのか、驚くほど膨大な文献を渉猟しているようだが少々イタリアに偏りすぎてはいないか、などという疑念を抱きかけたのだが、本書は保存修復という一見技術的な問題をはるかに超えて、芸術作品にとってオリジナリティとは何か、そもそも芸術とは何か、といった深い思索をうながす芸術哲学につながる射程を持ち、著者はしなやかに自分の言葉でこの問題によく肉薄している。著者が単なる机上の研究者ではなく、みずから修復を実践する修復士であるということも、大きい。少し初々しいところも感じさせる、いかにも研究者としての最初の著作らしいひたむきさが、読者に直接伝わってくる。修復の宿命と使命を、著者自身の決意のように記した結びの六行(二四七頁)も鮮やかである。この結びを読んで、学会賞に相応しい著作であると私は確信した。

根本美作子

この度はじめて選評委員を勤めました。委員のお話を頂戴したとき、日本の優秀な若手の研究者の仕事をきちんと追って来なかった身として、ぜひこの機会を利用して、発見の多い刺戟的な読書を沢山させていただこうという下心が大いに働き、迷うことなくお引き受けしました。

しかしそうした偏った動機のせいで、学会賞の選出というお仕事に必ずしもそぐわない読み方をしてしまった観があります。判断基準を、「どれだけ頑張っているか」(これは結局資料の面でということになりがちかと思います)ではなく、敢えて「面白く読めるか」という軸の方に傾けてしまいました。 その結果、今回の三冊の評価が、他の選評委員の方たちと逆転してしまう部分が出てきてしまいました。 私にとって今回一番「面白く」読めた本は、浜野志保さんの『写真のボーダーランド』でした。いかなる本を執筆するにもそれ相当の努力が必要であり、それ相当の「頑張り具合」があるでしょう。ですから浜野さんがこの本で「頑張って」いないなどとは毛頭思いませんが、しかし、他の二冊、大久保僚さんの『映像のアルケオロジー』と、田口かおりさんの『保存修復の技法と思想』に比較すると、資料の面における発見などの成果はたしかに少ない著作でした。しかしながら、写真の不気味さ、写るということの根本的な謎に執拗にこだわるその視線、その探究心が面白く、謎を説き明かすのでも、謎に惑溺するのでもなく、しなやかに謎に寄り添いつづける論法に引きこまれました次第です。正攻法の写真論ではなかなか迫ることのできない写真の不気味さに、写真のいかがわしさという側面から迫ろうとするアプローチが興味を引きました。そのアプローチで一旦写真の不気味さを存分に炙りだしてから改めてさまざまな写真論を振り返り、より粘り強く写真の本質に迫る部分が加われば、学会賞により相応しい作品になったのではないかと思われます。

次に「面白く」読めた本は、田口さんの『保存修復の技法と思想』でした。しかしそろそろこの辺りで、学会賞の判定に必ずしも妥当とは思われない「面白さ」という基準とお別れするべきでしょう。なぜなら、田口さんのお仕事でもっとも評価したい側面は、その知的誠実さにあるからです。それは修復という忍耐を必要とするお仕事と関係しており、その具体性、着実性が、論の展開に重みを与えています。途中、とくに序章や第一章に特徴的な非常に包括的な視点が、ときに数行でプリニウスからルネサンスを駆け抜け、ラスキンへと一気につなげるだけではなく、イタリアからイギリスそしてフランスへと飛び移り、絵画、美術批評、詩の領域を横断するため、多少読者に目眩を与えることもあり、ブランディにいたるまでの美学芸術学的な作品観について、もう少し時間をかけて言及されていたならば、ブランディの理論からより明確に距離が取れる部分も出てきたのではないかと愚考してみなくもありませんでした。しかし、イタリアの修復というきわめて保守的な世界の枠組みを敢えて突破し、バーネット・ニューマンや、パブリック・アートの修復といった現代の芸術の在り方にたいしても再考を促すような広がりを大胆に見せている点がとくに刺戟的で、学会賞に相応しい仕事とお見受けしました。

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