トピックス 1

第7回表象文化論学会授賞式

選考委員コメント

石光泰夫

推薦された三冊はいずれも濃密なこだわりで特異なテーマを追求した書物ばかりだが、そこで紡ぎだされている言説はこだわりからくる熱気と、そしてこれだけは断固主張してやまないという、ややもすれば思い込みとすれすれの頑固さに満ちあふれていて、むしろ爽快ですらあった。田口かおりさんの『保存修復の技法と思想―古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』が絵画の修復という技術をめぐる問いに特化していて、言説が狭いところに終始するのは当然のことだが、大久保遼さんの『映像のアルケオロジー――視覚理論・光学メディア・映像文化』は、「映像というメディアが本質的にインターメディアルである」というテーゼを実証しようとして、主として写し絵、幻燈などのイメージ映像がいかに声というメディアと必然的に結びつかざるをえなかったかを、江戸から明治にかけての微にいり細をうがって検証する。また浜野志保さんの『写真のボーダーランド――X線・心霊写真・念写』は、写真こそがふつうは見えないが、確固として存在するものを可視化する力を秘めていて、その力によって写真は「もの」を実在へと導くことができるという確信を、いわゆるボーダーラインの写真(合成写真など)で実践されうる存在論として力強く展開しようとする。だがどちらの著書にもそれぞれ、「なぜ映像イメージは、それ自体で自足せず、ことばを載せるしかない声を必然的に呼びよせることになるのか」(大久保さんの場合)、あるいは「ものであれ、エネルギーであれ、それがそこにないのではなく、確固として存在するとは、いったいどういうことなのか」(浜野さんの場合)という、論証全体がそこへと透徹されるべき「哲学的な」問いを欠落させているから、前者の場合は、写し絵を起源とする映像メディアの記述が時間軸を水平に流れていくばかりで、論述として垂直に深まることがないし、後者の場合は心霊であれ、心的エネルギーであれ、ともかく写真に写されてさえいれば、そのことがそのまま存在証明になりうるという強引なロジックであくまでも立論しきろうとする。もちろん、すぐれた記述がそのまま深みのある論述になることもあるし、果敢な仮説をたてて冒険しなければ新しい知の地平が拓かれないということもあるだろうから、「哲学的な」問いが先行しなければならないということをどこまでも言い張るつもりは毛頭ないが、このような言説の平坦な流れのなかでは、問題がはからずも尖鋭化して、こちらもその問題に思わずのめりこめてしまう、そういう強度を、両著の問題意識とももちえないという恨みは、私にはどうしても残ってしまう。

はじめに言説が狭いところを動いているといった田口かおりさんの『保存修復の技法と思想―古代芸術・ルネサンス絵画から現代アートまで』では、ところが、すでにタイトルにもあるとおり、ひとつの決定的に「哲学的な」問いが保存修復の問題の裏にぴったりと張りついて、その記述に雁行しているのである。「何がオリジナルであり、保存すべき対象であるのか」という問いがそれであり、この問いは田口さんがこの書物のなかでその思想を紹介しているチェーザレ・ブランディという稀代の修復家によって発せられたものなのだが、ブランディの保存修復の思想とそれに基づく技法の実践を、興味深い具体例を豊富に挙げてイラストしながら批判的に吟味していくなかで、田口さんはその問いに、「本来の意図された正しいイメージ」こそがオリジナルにして保存すべき対象であるという、とりあえずの答えを得させている。だがその答えがこんどは「誰の意図か」、「本来」とか「正しい」とかは何のことかという問いを必然的に招きよせてしまい、それがついには「芸術作品の起源とは何か」、「芸術作品とは何か」といういわば極限の問いにまで自然に深められ、追い込まれていかざるをえないのは理の当然であろう。だが事ここに至ると、この書物は、「絵画テクスト(の本来の意図を)読解可能な状態にまで回復させる」という、さしあたっての美術作品の保存修復の話をこえて、およそかたちというものへと造型された芸術作品を批評の対象にしようとするものすべての問題意識を、否が応でもざわっと波立たせずにはおかない。たとえば私は文学畑の人間だが、私が論をたてようと思っている文学作品のオリジナルとは何であり、そのオリジンはどこにあるのかということは絵画作品と同様、けっして自明のものではありえない。テクストの校訂・確定をするさいに編集者の恣意が少しでも紛れこむのをおそれて、すべての草稿をファクシミリで印刷して、それを全集としたヘルダーリンの名高いフランクフルト版が、文学テクストにおける保存修復の格好の例として、自然に眼前に浮かんできたくらいである。同じようなことは音楽でも舞台芸術でも、当然起きてくる問題であろう。しかも田口さんの書物は、範囲を絵画作品の修復に限ってはいるが、作品に降り積もっていく時間の要素(「記憶」と「歴史」)をどう扱うべきかという難しい議論へもたえず立ちもどり、またその間隙を縫うようにして「オリジナルと真正性を際限なく追い求める起源の病理」という「ポスト・モダン」な視点にもきちんと目配りしていて、絵画修復の立場からではあるが、こちらがはっとするような示唆をいろいろな方向から与えつづけてくれる。絵画作品の「保存修復の技法と思想」を一歩も出ずに、ほんの時折、びっくりするようなロマンティシズムを迸らせて、秘められた熱い想いを垣間見させる以外は、終始、端正かつ明晰な文体で書き綴られているこの書物が内包する懐の深さはじつは尋常のものではなく、その問題意識の射程の広さ・深さはほとんど際限がない。穏健な文献学の体裁を装いながら、そのじつ、かたちの生成について、読む者をこれほど深いもの想いにいざなう書物はまことに稀有であろうと思われる。賞などなくてもそのインパクトの強さはぬきんでているが、強いて顕彰されるとすれば、表象文化論学会の学会賞がこれほどふさわしい書物もないであろうと確信している。

北野圭介

今回の表象文化論学会賞の選考に際に考えさせられたのも、昨年もまったく同じで、「表象文化論」という名辞で表象せられているものとはいったい何なのかという問いです。一瞥では、「表象」を表象するものは何かといういささか堂々巡りになってしまいかねないその問いは、けれども、その語の差すところをあえて宙吊りにしたままで駆動させられる戦略的な賭けの謂いにほかならないという旨がこの語が「知」の世界に導入される際に語られていたことを思い起こすとき、すぐさま身震いするものとなりえます。いうまでもなく、学術的であるとはいかなることか、知とはいかなる営みかについて、つねに更新していかざるをえないことに気づかされるからです。『表象09』で学会長が記していた小文「r>gの時代の文化研究」に目をやるなら、なおさらのことではないかと思います。

そして、本年もまた、自らの専門領域の当たり前に自堕落に安住するのを許してしまう向きのある筆者のような姿勢では、およそ出逢うことはなかったであろう濃密な作品群――すべての候補作がそうでありましたが――に触れることができた歓びをまずは記しておきたいと思います。選考に際して筆者がかろうじて寄与しうることはメディアをめぐるあれやこれやに関連する角度からに過ぎないこと、もっといえば、表象文化論が表象するものと何かという先の問いを踏まえると、「メディア」や「ミディアム」といった語の当たり前をどれだけ揺さぶってくれるかという期待のみが作動していたこと、それらもまた昨年度とまったく同じでした。

受賞作となった『保存修復の技法と思想』は、きめこまやかに資料を博捜し繊細というほかない手つきで捌き分ける点はいうに及ばず、それよりも何よりも、修復というテーマが、その実際において、芸術上の真ん中に位置する思想的問題といかにときほどしがたく絡み合っているかについて読む者を何度も覚醒させてくれるものでした。とりわけ、芸術作品におけるオリジナティとは如何なることをいうのかという根本問題を、さらにいえば、メディア・テクノロジーが無視できぬほどに多様な形態で繁茂する今日一層重要性を増す根本問題を、修復保存という角度からダイナミックに照らし出していく論述は魅了されざるをえないものでした。

「洗浄」と「補彩」という修復保存をめぐるいわば古典的な技法と、「可逆性」や「判別可能性」といった芸術的価値の行方をめぐる理論的課題との密接な絡み合いを扱う前半部分。そして「素材」から「介入」そして「ドキュメンテーション」といった現代において新たにあるいは改めて浮かび上がってきた実践的課題と、ヴァンダリズムやパブリックアートさらにはアーカイブといった現代芸術をめぐるアクチュアルな諸問題との間のダイナミックな斬り結び合うさまを扱う後半部分。それぞれにおいて、論述は筆者の当たり前を心地よく裏切っていくものです。両者ともに通底している経年価値と美的価値を始めとする芸術上の価値という主題であったといえますが、それが粘り強く格闘されていく論展開には痛快でさえあるでしょう。また、大ぶりな物言いは慎み深く抑制されており、繊細な言葉で織り上げられている文章もまた感服するものでした。

『映像のアルケオロジー』は、江戸期から明治期へと時代が移り変わりのなかで、写し絵、幻燈、写真、連鎖劇をはじめとする映像メディアの諸形態が、物見や心理学、報道や各種興行といった言説実践や社会実践のなかへとどう着陸していったかについて膨大な資料をもとに浮かび上がらせる力作だったといえます。そのなかで、近年注目をあつめる、イメージと身体の間の多様な関係をさまざまに浮かび上がらせ、読む者に多くの知見を与えるものであったといえます。

『写真のボーダーランド』もまた、十九世紀の写真誕生以来に脈々と実践されてきて言えるパラノーマルとひとまずはくくれるかもしれない、下手をすると際物に見えてしまいかねない写真創作の場に蠢いていた想像力や感性、あるいは知性の姿を明らかにしようと学術的に取り組んだもので力作です。これもまた膨大な資料を参照しつつ、写真という媒体が寄せ集める、孕み、そして時はたつ想像力の一角を、その創作、受容の両面にわたって実情を照らし出そうとするもので、写真研究に大きく寄与するものであるだろうと思われました。

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