PRE・face

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「裏番組を見逃す」こと
吉田 寛

この巻頭言を依頼されたとき、少々当惑しました。私は大会主催校に所属する会員ですので、大会当日は半ばスタッフとして駆け回っていて、各会場を満遍なく回って発表を聴講することができませんでした。従って、大会全体を総括できるような立場にはありませんし、全体についてコメントをするには、けっこうな「復習」が必要だなと思っていました。

しかし、いざ書く段になって、自分が聴講できなかったものも含め、すべてのシンポジウムとパネルの報告に一通り目を通しているうちに、あることに気が付きました。それは、こうしたパラレルセッションの形式をもつ学会では、すべての発表を聞いて「全体を総括」できる者など誰一人として存在しない、という当たり前のことです。それに気付いて、少し楽になりました。そしてそこからさらに別のことに思い至りました。

私はこれまで、どちらかといえば、パラレルセッションの学会には批判的で、自分で企画するときにも、シングルセッションを重視して設計してきました。それは、こうした「全体へのアクセス不可能性」を無用なストレスと感じてきたからです。しかしながら、それは学会の「短所」ではなく、むしろ「長所」とはいえないだろうか、いやそれどころか、それこそが学会の「本質」ではないのか、とまで思えてきたのです。全体を知ることは誰もできないような複数の出来事が同時に生起する場──われわれがわざわざ集うべき価値があるのは、そのような場ではないのか、と。

こうした学会で一つの発表を聞くことは、不可避的に、その裏で同時進行している別の発表を聞き逃すことを伴います。だからこそわれわれは、空き時間を使って、会場の至るところで情報交換をします。お互いが聞き逃したものについて教え合います。要約をします。感想を言います。批評をします。そして、あっちを聞けばよかったと後悔したり、やっぱりこっちを聞いて正解だったと安堵したりします。そういう営みのなかにこそ、学会本来のよさがあるではないか、と今さらながら(遅いですよね)気付かされたのです。

そして実はこうした発想は、私にとっては既知でした。作曲家のシュトックハウゼンに『家のための音楽』(1968年)という作品(というよりパフォーマンス)があり、そのプランを調べたことがあります。一軒の家をそのまま会場にして開催されたコンサートで、聴衆は各部屋を回りながら聴く、というものです。誰もすべての音響を聴くことができないように意図的に設計されているのです。コンサートホールという「制度」を解体し続けたシュトックハウゼンらしい作品です。全員が同じ資格で同じ作品にアクセスすることで可能となる議論や批評もありますが、逆に、経験の同一性が断念されているからこそ立ち上がってくる議論や批評もある、ということを私はそこから学びました。

ところが、こうした考えは、昨今の時代の流れには反します。現代はコンテンツ化の時代です。あるテレビ番組を見ると、同じ時間帯にやっている「裏番組」は見れない、というのは私のような世代の人間にとっては当然の感覚です。しかし今はそうではない。すべてのテレビ番組がコンテンツ化され、オンラインで常時アクセス可能な状態にある、そういう時代です。人間存在の有限性(まずもって、われわれには時間がない!)はなぜか不問に付されたまま、「可能性」だけが無限に保証されていく時代です。それが当然の「サービス」として「消費者」から要求されているのです。本学会のウェブサイトのコンテンツとて例外ではありません。

コンテンツ化の波はこれからも止まることはないでしょうが、有限性をポジティブに捉えかえすことは、それに抗する一つのきっかけを与えてくれるはずです。われわれには「裏番組」が必要です。学会に限らず、これからの学問的営みは、確信をもって「裏番組を見逃す」ような仕掛けを、「出会い」と「出会い損ない」をどちらも有意義なものとして同時に生成させるような仕組みを、ポジティブに設計していく必要があるのではないか。そうしたことまで考えさせてくれる、刺激的で活動的な二日間の大会となりました。

それでは皆様、またどこかの裏番組でお会いしましょう!

吉田寛