新刊紹介 単著 『『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む 自由間接話法とテクスト契約』

芳川泰久(著)
『『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む 自由間接話法とテクスト契約』
せりか書房、2015年7月

ふたつの問いから本書ははじまる。接続詞「そしてet」と自由間接話法、フロベールの小説『ボヴァリー夫人』(1856年)に繰りかえされるこうした特徴(あるいは文体の癖)をどのように訳せばいいだろうか。

フロベールにおける「そして 」は、システマティークにセミコロンや読点と組み合わされ、文学の目利きたちによってすでに指摘されている。プルーストによると、「引き返してゆく波がふたたび形づくられるように」、停止と継続という二方向の運動性が表されているのだという。あたかもそれがちりばめられた宝石であるかのように語るプルーストの口調は、熱っぽい。またナボコフによると、「そして」は符牒であり、最高潮に達するイメージを導くものとして、またもや絶対的賛辞を呈している。一方、自由間接話法(登場人物のことばを語り手のことばの中にとけこませる手法)はというと、これはきわめて19世紀的な、つまりそれ以前の用例はフランス文学史上稀少であって、フロベールによりはじめて本格的に使用され、20世紀に入ってからは実践よりも理論が後を追うかたちでようやく批評家の注目するところとなった、歴史性をまとう小説言語のことである。

どちらも、フロベール的、といえるテクストの佳所であるには違いないが、しかし「そして」を逐一訳すと冗長になり、また自由間接話法の人称変化(一人称「わたし」の言には三人称が用いられる)をそのまま日本語に置きかえることはできない。

こうして新訳『ボヴァリー夫人』(新潮文庫)を上梓したばかりの著者は、自らの問いに自ら答えるというかたちで、具体例をあげつつ、いわく言いがたいものとしてある文体をどのように訳すに至ったか、説明してゆく。難題と、逡巡と、解決への糸口、その試みとしての個人訳、というように、順を追って進んでゆく本書は、スリリングな展開をもった翻訳教室であり、また、原文の特徴を表すためどのような工夫を凝らしたか、その経緯を明らかにしようとする、いわばひとつの論理的陳述書でもある。

著者はさまざまなゲームの規則を自らに課す。たとえば、自由間接話法での主語は省略するか、あるいは「わたし」を「自分」と訳す、話者のことばから登場人物のことばへと変化していても文章は切らない、時制は現在形に統一する、というように。その結果、読みやすさよりもむしろ、困難さが困難さそのものとしてテクストにとどまりつづける、極私的日本語訳が生まれでることとなる。一例をあげてみよう。「エンマは軽く肩をすくめて彼の言葉をさえぎり、危うく死にかけたこの前の病気のことをこぼし、じつに残念!死んでいれば、こうしていまごろもう苦しまなくて済むのに!」(新潮文庫、p. 421。)

二部構成をとる本書は、後半、テーマ批評へと移行する。「テクスト契約」と題された第二部において著者は、従来の方法論に批判的スタンスをとりつつ、「規則的な音」と「ほこり」との共起について、独自のテーマ分析をほどこしてゆく。ここでの「テクスト契約」とは、あることばと、また別のことばとが、「テクストの上で、意味の等価性を獲得する事態」(p. 144)のことだという。そうした「契約」の下、等価なるものとして結ばれえる「規則的な音」と「ほこり」と「照りかえす日の光」との同時性、たとえば、こめかみに脈拍の音を聞くときには、ほこりを立てて走る馬車が見えるということ、また、ぽたりぽたりと水滴が規則的な音をたてるときには、ちらちらと白い肌に反射する日の光があるということが示される。

フロベール研究がその対象を、草稿(アヴァンテクスト)あるいは歴史的文脈および同時代の科学言説(コンテクスト)へと移行させて久しい。そうした意味において、テクストにとどまり、テクストのことばのみに着目する本書の手法は、ここ数年のフロベール研究とは一線を画している。テマティークという、前世紀の、ややもすれば衝撃性を失いつつある(あるいは失った)と思われがちなこの方法論は、しかし、伏線とテーマ系とが気の遠くなるほど幾重にもはりめぐらされた『ボヴァリー夫人』を前にして、その息吹をふきかえす。迷路のごとき主題の錯綜は、ひとりの読者というよりはむしろ、世代をこえた複数の読者によって、ひとつまたひとつと明かされていくものなのかもしれない。その多くを負うているリシャールを批判的に読むことで、リシャールとの差異化を図っていた、蓮實重彦著『「ボヴァリー夫人」論』と同じく、同書を批判的に読むことで、『ボヴァリー夫人』のテーマ分析を更新し補完しようとする本書は、テクストを読むのに終わりはないということを、改めて知らしめてくれるものといえるだろう。(橋本知子)

芳川泰久(著)『『ボヴァリー夫人』をごく私的に読む 自由間接話法とテクスト契約』せりか書房、2015年7月