小特集 各国の出版事情 ロシア

社会主義のあとさき:ロシアの人文系出版
乗松亨平

人文系出版はロシアでも「人並み」の危機ないし転機にあるが、それを近年のメディア技術の革新と結びつける言説は、あまり目立たないように思う。ロシアの出版界がいまだ技術革新の波に洗われていないというわけではなく、後述するように、出版コンテンツのウェブ化は日本よりずっと進んできたし、バスや電車で電子書籍を読んでいる人を見かける機会も多い(かつて日本とロシアは電車のなかでの読書率が最も高い国などといわれたのだ)。ではなぜそれが話題にならないかといえば、技術革新以前にロシアの出版界はより根本的な危機に見舞われたため、以降の危機はその余波のように感じられているのではないか。

いうまでもなく、それは1991年のソ連崩壊である。ソ連では出版を含む文化事業も当然ながら国営だった。ソ連崩壊後、国庫による文化支援は激減し、ボリショイ劇場すら一時は経営危機に陥る。ソ連時代、書籍の出版部数はあらかじめ計画的に決められており、一般向けの古典文学類には100万単位の部数が割りあてられることもあった。奥付には印刷部数が明記されていて、一度印刷されると刷りを重ねることは基本的になかった。つまり初版本しか存在しないという、商業原理に則った書籍出版からは信じがたい慣習は、いまもロシアに残っている。

売り上げという観念のないこの状況は、検閲総局を中心とする出版の管理統制により維持されていたのであり、およそ牧歌的なものではない。しかし自由が文字どおり「高くついた」のもたしかだ。ペレストロイカのさなかには、代表的な月刊文芸誌『新世界』の発行部数が270万部に達したという文芸大国ぶりは、ソ連崩壊とともにあっという間に衰えた。たとえば1972年に刊行が開始されたアカデミー版ドストエフスキー全集の第1巻は20万部発行だったが、2013年に出たその改訂版第1巻は5千部である。これもソ連期以来となるトルストイの新しい全集は、2000年から日本の昭和女子大の助成を受けて刊行が始まったものの、全100巻予定のうち数冊が出たきりストップしてしまっている。

ソ連崩壊とともに、国策により維持されてきた古典文化や人文学の権威は失われ、新しい市場経済のなかで需要を保つことはできなかった。それに加えて、作家・芸術家や研究者を支援してきた制度が解体され、その生活環境は著しく悪化した。上記のトルストイ全集も、数人の研究者がほかの業務のあいまに細々と編集しているらしい。一方で、プーチン政権下では大学への政治的圧力が強まり、2013年にはソ連以来の科学アカデミーの抜本的改組の方針が打ち出された。このような事情で、ソ連崩壊後のロシアでは大量の頭脳流出が生じ、トップレベルの人文系研究者のかなりが外国に移住しているし、若い世代も海外でのキャリア獲得を目指すことが多い。その結果として皮肉にも、ロシア研究は人文学のなかではおそらく突出してグローバル化が進んでいる。

資本主義圏では徐々に進んできた危機を、こうして一時に追い越してしまったかのようなロシアの人文系出版で、目につく動向を二点ほど挙げておこう。

ひとつはソ連崩壊後のロシアの人文系出版を牽引してきた出版社「新文学批評(NLO)」である。1992年に創刊された雑誌『新文学批評』を中心に、西側の人文学の導入に努めてきた。「NLO帝国」などと揶揄されるほど、質・量ともに他社を圧倒するその出版活動を率いる社長のイリーナ・プロホロヴァは、ソ連崩壊後の混乱期に頭角を現した「オリガルヒ」と呼ばれる富裕層の大物、ミハイル・プロホロフを弟にもち、「新文学批評」社にもその資金が注がれているようだ(編集部はミハイルの文化助成団体「プロホロフ財団」などともに、モスクワ最中心部の豪壮なビルに入居している)。最近では政界に進出し、2012年の大統領選では第3位となったミハイルは、リベラリズムを掲げつつ、プーチン政権との過剰な対立も避けてきた(政権との対立により弾圧されたオリガルヒは多い)。プーチン政権下でマスコミが統制を受けるなか、人文系出版には読者の少なさゆえにかなりの自由が許容されており、「新文学批評」社の活動は、欧米派リベラルとしてのミハイルの政治的・経済的戦略の一翼とみなすこともできよう。そんな権力との緊張した共存関係が、現代ロシアを代表する人文系出版社の背後にあるのだ。

もうひとつは、インターネット初期から顕著だった、出版コンテンツの積極的なウェブ公開である。数ある電子図書館サイトでは、人気作家の最新作も無料で全文を読むことが可能だ。違法な海賊版も少なくないと思われるが、こうした状態はすでに定着しているし、出版社の側がみずから公開している場合も多い。たとえば1996年創設のサイト「雑誌閲覧室」では、『新文学批評』をはじめ、40近い文芸誌・批評誌の内容が公開されている。最新号は公開していない雑誌が多いが、多少待てば無料で読めるというなら、買い控える読者も出てくるだろう。こうした方策の背景にあるのは、バックナンバーの公開はむしろ販売促進になるといった経営的判断よりも、社会主義時代にさかのぼる、文化や知に関する共有財の感覚ではないかと思う。私たち自身の近い将来の可能性のひとつとして、このような感覚のリアリティを考えてみてもよいはずだ。

乗松亨平(同志社大学)