PRE・face

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Volume、花として
小林康夫

なぜかvolumeという言葉を考える。ヴォリューム、つまり嵩であり、量、容積、強度であり、さらには、語源はラテン語のvolvere(巻く)らしいから、文字通り「巻」、つまり本の一冊である。

本号の特集である「人文系出版の現在」というテーマに呼応してなにか書かなければならないことになって、ぼんやり──まるでマラルメだな──「書物の危機」について考えようとしていたら、愚かな思考はぐるぐるとvolumeの一語のまわりを渦巻くのみ。

マラルメは「詩の危機」から出発して「世界は一冊の書物へ到達するためにある」と書物livreという香しいイデーidéeを、夜空に(デュシャンかな?)ガス燈のように高らかに掲げたのだったが、それからまだ一世紀少しばかりしか経過していないというのに、はや、「書物の危機」である。詩versどころか、散文proseすら危機というわけだ。すでにわれわれの世界はいくつもの星座を配置した夜空すら失っているのか、いや、見上げれば、もはや形象figureを分別することもできないほど途方もなくmassiveな情報の銀河galaxyがどこまでもぼんやり雲のように浮かんでいるだけと言うべきか。いずれにしても、われわれの時代のコンフィギュレーションconfigurationは、すでに書物livreではなく、せいぜいmagasineつまり原義通り「倉庫」、集積にほかならない。世界はmassive なデータ集積に到達するためにあるとかなんとか、言ってみるのがいいかもしれない。

だが、そうしたmassとは異なるものとしてのvolume、それこそが、「人文系」はもとより、なによりも「人間」にとって、「人間」の「言語」にとって、決定的であることを、それでもあらためて言っておきたい。わたしの思いは、いま、それに尽きる。

なぜならvolumeとは、たんなる集積ではなく、一個の出来事であり、しかも開花のように、爆発のように、出来事であるからだ。それは、思考の集積なのではなく、思考の質的変化、つまり思考が、あるいは言語が、ついに出来事と化すこと。一見すると線的であるように思える思考(言語)が、そうではなくて、plan(面)でもtableau(表)でもなく、一挙に、リズム波打つvolume(嵩)として渦巻くのでなければならない。夜空はもはや「面」ではない。「襞」として幾重にも折り返された「面」でもない。それはもっと多元的な空間であり、形象はひとつではなく、(cloudyに)たえず変化し続ける運動。そしてそれこそが「言語」という「思考」の出来事の根源であるにちがいない。

「人文系」であるということは、どのような仕方であれ、その「根源」に責任をもつということにほかならない。とすれば、書物という根源的なvolumeとかかわることなしには、その責任を実践することは不可能。それが、わたしが夢想する「人文系出版の根源」ということになる。

(最近刊行した拙著の『君自身の哲学へ』(大和書房)の作られ方をめぐってもっとプライヴェートな「出版」の現場・現況を語るつもりだったのに、ささやかな言葉の渦巻きが、なぜか、こっちに走った。ご寛容を乞う。)

小林康夫