新刊紹介 単著 『敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画』

中村秀之(著)
『敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画』
岩波書店、2014年10月

中村秀之の『敗者の身ぶり』はそのタイトルが示す通り、ポスト占領期の日本映画において現れたいくつかの「身ぶり」を──映画テクストの分析および歴史的文脈への参照を通じて──注意深く読み解いた好著である。本論は6章からなり、各章はそれぞれ、(1)『虎の尾を踏む男達』での目を伏せるあるいは見上げる、(2)『晩春』と『麦秋』での原節子の座り方、(3)『赤線基地』での惨状と化した故郷を前に呆然と立ちすくむ、(4)中村氏が「黒沢明ポスト占領期三部作」と呼ぶ『生きる』、『七人の侍』、『生き物の記録』における女性たちの無言、(5)『二等兵物語』シリーズ初期作品での伴淳とアチャコの喜劇的動作、(6)成瀬巳喜男の戦中・戦後の二作品(『なつかしの顔』と『浮雲』)での身をそむけるといった身ぶりを、(1)その場をやり過ごすという生存の問題、(2)戦争・戦後の混乱で失われた家族の不在の暗示、(3)米国・日本側という異なる視点からの映画解釈、(4)当事者と代行者の関係、(5)戦争記憶の商品化、(6)戦中・戦後の現実への抵抗といった映画外の歴史的現実と関連付けて論じている。こうした精緻な作品・文脈分析に加え、本書には、補論として戦中に米国で製作された『ビハインド・ザ・ライジング・サン』の考察、ヴァルター・ベンヤミンへの参照を通じて、身ぶりをめぐる方法論を論じたエピローグが付されている。

以上のように、本書は綿密な作品分析とその歴史的文脈の考察の総合を試みている。しかしながら、その試みは困難を伴うだろう。というのも、作品分析が精緻を究めれば究めるほど、それは多くの映画研究がそうであったように、物語論(あるいはスタイル分析)へと向かうためである。しかし、作品の外側には社会的現実が歴然と存している。とはいえ、ある映画作品はこの社会的現実をナイーヴに反映しているわけでもない。そこで中村氏は、「昼」(現実)と「夜」(暗闇の中で投影される映画)の隠喩を用い、ベンヤミンに依りながら、映画内に現れる「身ぶり」に注目するのである。エピローグで述べられているように、複製を可能とする技術に立脚した芸術である映画は、ある身ぶりを現実社会(「昼」)における「伝統的連関」から切り離し、この「破壊=救済」を介して、「無意志的記憶」の中で「引用」するのである。そして中村氏によれば、この「無意志的記憶」の中で身振りが引用される場が、「夜」たる映画館の暗闇であり、中村氏はそこで一瞬仄かに――しかし反復可能性の根源を背景として燦然と──煌めく身ぶりを、汲み取り、救い、読み解こうと試みるのである(付言すれば、本書を通じて、中村氏は米国側・日本側双方ならびに映画製作者・観客によって織りなされる記憶──意志的であろうと無意志的であろうと──にも、きわめて注意深い分析を行っている)。

その精緻な作品分析と文脈検証──および両者の総合──の試みのために、本書は映画学や日本戦後史といった学問的枠組みを超えて、万人に読まれるべき刺激的著作となっている。最後にまったく私見であるが、筆者が本書の読書中に見た、『インターステラー』(クリストファー・ノーラン)と『さらば、愛の言語よ』(ジャン=リュック・ゴダール)という二作品に触れることでこの短いレビューを締め括りたい。近年、インターネットとモバイル機器の発展のために、映画というメディアは大きな変形を余儀なくされている。筆者は映画館においては、携帯電話の電源を切らなければならないという制度が好きである。しかし、私たちはデジタル技術の発展とともに、ジョナサン・クレーリーの言う『24×7』の世界に生きているのであり(連絡が繋がらなかった理由を映画に帰すことは許されるのか)、こうした状況において、中村氏の言う「昼」と「夜」の隠喩はどのような新たな意味を獲得するのかと夢想したくなる。もちろん現在の状況を、終わらないハイパーリアルな「真昼」と形容することはできるだろうが、中村氏の好著に促されて、先の二作品は映画というメディアの歪んだ身ぶりを示しているように筆者には思われた。(滝浪佑紀)

中村秀之(著)『敗者の身ぶり ポスト占領期の日本映画』