新刊紹介 単著 『視覚文化「超」講義』

石岡良治(著)
『視覚文化「超」講義』
フィルムアート社、2014年6月

本書は、マンガや現代美術、ゲームなどですでに旺盛な批評活動を行っている石岡良治の、各所で待望されていた単著である。本書に関しては、すでにツイッターや雑誌の書評でいくつかの感想や批評を目にすることができ、そこではハイカルチャーとローカルチャーの区分を横断して展開される博覧強記や、それらを驚異的な手さばきで読み解いていくその速度を称賛する言葉を見ることができる。

とはいえ、本書の洞察は、決してそうした接続の速度にあるわけではない。本書では、時代を診断するわかりやすい処方箋が提示されているわけではなく、なんらかの固定した立場は、時間と空間の双方からから不断に突き崩されている。むしろここにあるのは、一つの歴史的視座から生まれる慣性的な速度の、積極的な拒絶なのである。

しかし、そのような停滞は、決してシニシズムや懐古趣味(あるいはその拒絶というわかりやすいモダニズム的な態度)から生まれてきているのではない。むしろ、そうした「遅さ」は、新しい価値を生み出すためにこそ行われている。例えば、本書において、文化的なマトリックスというべき位置に置かれているのは、1950年代のアメリカ、すなわち、カウンターカルチャー以前の保守的な時代だが、新たな時代の胎動が、そこかしこで感じられていた時代である。こうした時代をパースペクティヴの中心に据えることで、著者は描き出そうとするのは、そこから何かが生まれてくる可能性の空間に他ならない。著者は、そのような時代の胎動を、前後の時代に重ね合わせることで、現代において「始めること」の可能性を模索しているのである。だから本書では、教養主義や、趣味の共同体、ノスタルジーなど、多くの場合否定的にとらえられる言辞にも、常に何らかの肯定的なベクトルが見出されることになるだろう。

このような様々な文化的事象の重ね合わせから透かし見える「動き」を、著者は最終的に「モダニズム」と名付けようとしているようにも思われる。著者は、形骸化した高踏芸術とみなされがちだったモダニズムの担い手の多くが、貴族階級ではなく平民の出身だったことに一瞬触れている。著者が最終的にたどり着こうとしているのは、後の時代には形骸化してしまったこの動きの原初の衝動なのであり、大衆文化のただなかにその反復を見出そうとしているのではないだろうか?

本書の速度感は、一つの歴史的パースペクティヴから別のそれへと「ギア・チェンジ」する際に生じる、徹底的にフェイクだが、しかし仮の原因としての絶対性を持つ空間に、徹底してとどまることから生まれている。しかしながらそこに垣間見えるのは、現代的な諸条件の中でモダニズムを「反復」しようとする、確固たる意志のようにも思われるのである。(畠山宗明)

石岡良治(著)『視覚文化「超」講義』