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国際シンポジウム:現代美術の保存と修復――何を、いかに、どこまで

国際シンポジウム:現代美術の保存と修復――何を、いかに、どこまで


2014年3月23日、急に春めいた陽気のなか、国際シンポジウム「現代美術の保存と修復――何を、いかに、どこまで」(京都大学大学院人間・環境学研究科、科学研究費基盤研究(B)〈代表者:岡田温司〉)が開催された。講演者にはアントニオ・ラーヴァ氏(現代美術修復家・イタリア国際修復機関副会長)、岡泰央氏(装潢師・岡墨光堂代表)、森直義氏(絵画修復家・森絵画保存修復工房代表)の三名を迎えた。全員が保存修復の実践における第一人者であると同時に各々まったく異なる分野を専門としているがゆえに、現在まさに取り組まれている保存修復の実例をまじえながら幅広い議論が展開された。はじめに司会を務める岡田温司氏(京都大学大学院教授)から、シンポジウムの主旨説明に代えて(近)現代美術の保存修復が抱えるアポリアが提出された。それは、マチエールの多様性(とりわけ現代美術に好んで用いられるエフェメラルなマチエール)、コンセプトの重視(かたちをとって残るものよりもパフォーマンスや一回性、儚さを本質とする作品)、作者が存命であること(ひとたびその手を離れた作品にたいする作り手の意思の反映)である。これらをめぐって修復家は、つねに「何を、いかに、どこまで」というせめぎ合いの渦中に身を置き続けなければならないのだ。シンポジウムは、三名の講演者がそれぞれ発表をおこなったのち、コメンテーターの金井直氏(信州大学准教授)が議論をまとめながら新しい視点を導入し、会場との質疑応答につなげるかたちで進行した。

「伝統と革新のあいだで――現代美術のための修復理論」と題されたはじめの発表でアントニオ・ラーヴァ氏は、自身が修復した近現代美術の多彩な作品例を紹介しつつ、岡田氏がさきに挙げたアポリアをめぐって言葉を紡いだ。ラーヴァ氏の発表は、自然のサイクルにも似た作品の生(死を迎えることも含めた生)を受け入れ、その非‐永続性にいかに向き合ってゆくかという問題意識に支えられていたように思われる。また、西洋における修復理論の基礎を築いたチェーザレ・ブランディにたびたび立ちかえることで、近現代美術の保存修復に特有の問題が浮き彫りにされた。消滅することが運命づけられている作品に介入する際の指標を構築するにあたり、ラーヴァ氏はブランディの理論における「記憶」の重視を引きだす。とはいえ、失われてゆくオリジナルの破片をそのまま残すことを第一としたブランディの時代とは異なり、近現代美術の作品は、大量生産されていつでも交換可能なマチエールや、食べ物や動物といった交換を余儀なくさせるマチエールの使用をひとつの特徴としている。そのためブランディとは異なるアプローチが求められる。ラーヴァ氏が提唱するのは「ドキュメンテーション」の必要性だ。交換可能なマチエールの収集にはじまり、交換の手順の記録、修復に対する作者の声の蓄積、また、作品の変化やそれに介入した際の記録などを残すことで、作品の生がもつ多様な時間性(ラーヴァ氏の言葉を借りれば、近現代美術作品の生がもつ「中断」や「空白」の時間)に対応することが可能になるのである。かかるドキュメンテーションが修復の現場でどのように積み重ねられ、活用されているのかを、ティンゲリーやキーファー、メルツなどの作品に対する自身の介入例を取りあげて示したのち、そのような介入例はブランディの理論の核心から逸脱するものではないとラーヴァ氏は述べた。すなわち、修復家は作品を守らなければならない、間違った修復によって作品のもつ意味が消滅してしまうようなことがあってはならない、というブランディの基本的な方針である。これは、介入方法を議論する際、作者と修復家、あるいは修復家どうしが共通の認識をもつことのできる用語をつくりだすことが必要だと強調して議論を締め括ったラーヴァ氏自身の基本姿勢でもあるだろう。それゆえドキュメンテーションは、個々の作品に向き合った記録であると同時に、作品の生というものに対峙するひとびとのコミュニティにおける共通言語の基盤ともなり得るのだと考えられる。

つぎに岡泰央氏は「日本における絵画修理のあゆみ」において、西洋の伝統的なマチエールとは異なる紙と絹に限定しながら日本絵画の修復を取りあげた。発表全体を通して岡氏が幾度も立ちかえることになる修復の原理は、オリジナルの状態に復元することよりもむしろ、オリジナルの鑑賞を助けることであったように思われる。そのために選択されるのが、中間色による補彩と過去の痕跡に基づいた仕立て直しだ。中間色による補彩は、日本の絵画修復における転換期だと岡氏が定める1970年代から広がり始めた技法である。それ以前の復元的修復は、当時の著名な絵師によっていわば恣意的になされるものであったが、画面全体の最大公約数的な色彩によって施される補彩は、みずからを主張することなくオリジナルの部分へと観賞を集中させることを可能にするかぎりにおいて、ニュートラルな立場を獲得する。西洋ではブランディによって提唱されたものの根付くことのなかったこの技法は、ぼかしによる遠近法や紙の質感を活かした空間表現という日本絵画の表現技法に馴染むものであった。とはいえ、中間色という理論によって求められる技術が復元的修復に慣れた現場の職人に体得されるのには、少なからぬ年月を必要としたようだ。かかるあからさまな損傷にたいする補彩とともに、日本絵画の保存修復において重要な役割を果たすのが仕立て直しである。紙や絹という脆いマチエールで構成された掛軸は、およそ150年に一度、表装を取りかえなければならない。岡氏は、絵が描かれた本紙の背面に直接貼りつけられる裏打紙の色を例にとり、表装が絵画表現にあたえる影響の大きさを示した。墨で黒く染めあげられた裏打紙と真っ白な裏打紙とでは、絵画の奥行にあきらかな違いがうまれるのである。仕立て直しを繰り返した作品のなかにはオリジナルの表装に関する記録のないものも多く存在するが、過去の仕立て直しでは除去され切らずに残された裏打紙の破片を見つけだすことで、当初の表装を伺い知ることができる。このような過去の痕跡に基づいた仕立て直しが、作者が意図した状態で鑑賞に供されることを可能にするのだ。西洋の例にたがわずマチエールや表現技法の多様化を遂げる近現代の日本絵画と向き合うなかで、後世に「何を、いかに、どこまで」伝えることが「オリジナル」の鑑賞を支えるのか。これまでの日本絵画修復のあゆみ、すなわち現場で積み重ねられてきた理論と経験が、そのひとつの指標となるのである。

さいごに森直義氏の発表「画家の技法について――ジョルジュ・ルオーと藤田嗣治を例に――」では、保存修復のための調査を通してあきらかになった画家の技法、制作の様子が紹介された。作品と向き合うなかで痕跡を拾い、繋ぎ合わせてゆく森氏の視線を追体験するように構成されたこの発表からは、普段われわれが鑑賞の対象とする作品の表面に見えているものが、じつは作品のもつ情報のほんの一部に過ぎないということを実感させるものであった。森氏の導きに従って作品を「見る」ことでわれわれは、制作の過程で幾層にも積み重ねられた情報、氏の言葉を借りるならば絵画の「深さ」に潜り込んでいったのだ。まずは、ときに立体顕微鏡を用いてさまざまな角度からじっくりとルオーの作品を見ることからはじまった。木枠に貼られたシールと絵の具や、絵の具どうしの重なりかた、絵の具のつぶれ、また、欠損部をのぞき込むことで露わになる絵画の層。これら微細な情報を総合すると、はじめは紙に絵を描き、それを紙と麻布で裏打ちして木枠に張ったのち、テーブルのうえに何枚も絵を重ねて絵の具を塗り込め続けた画家のすがたが浮かびあがった。作品のもつ痕跡から繙かれた画家の技法は、パナソニック汐留ミュージアムでの企画展を通して一般にも公開されている。つぎに、肉眼では見ることのできない絵画の「深さ」へあゆみが進められた。透過光写真やX線画像、エネルギー分散型X線分析などを通して、独特の透明感をもつ藤田の作品の内側が見られたのである。透過光写真を通して見ると、藤田の作品には共通して白い雲のような模様を認めることができた。かかる情報は作者の同定に役立つと同時に、作品が内に抱える美しさを開示してくれるものでもあるだろう。また、X線画像からは彩色層の薄さが確認された。藤田作品のもつ透明感は、地塗りの厚さと彩色層の薄さによって生みだされていたのだ。化学物質の特定を可能にするエネルギー分散型X線分析からは、藤田が用いた素材が明らかにされた。なお、この内容は秋田県立美術館開館記念特別展で公開された。以上見てきたふたつの調査は、美的存在としての作品をいかに残してゆくかを判断するためにおこなわれたものであるが、そこから得られた情報は保存修復の目的以外にも価値をもつものであることが示された。森氏の発表が画家のすがたをありありとよみがえらせてくれたように、かかる調査の成果が画家に触れることの一助となるのは間違いないだろう。

休憩後、コメンテーターの金井直氏は、講演の内容をまとめたうえで質問を投げかけた。そこでは、交換可能であるはずのマチエールが国や地域によっては交換不可能であることや、日本絵画の仕立て直しと西洋のストラッポ技法の類似などが指摘されたが、豊田市美術館での学芸員経験をもつ金井氏がとりわけ重点を置いていた問いは、保存修復と美術館の関係であったようだ。作品の所有者である美術館は、修復のいわば施主である。それゆえ、美術館側の意向というものが修復の方針に影響を及ぼすことになるが、修復家はそれとどう向き合ってゆくのか、また、保存修復に対する美術館側の態度には変化が見られるのか。はじめの問いにはラーヴァ氏がコントロール下に置かれた修復の必要性を訴えたが、最終的には作者と所有者の「自制心」を信じるほかないという現状が露わにされていたように思う。しかし、これまで内密にされることの多かった介入方法を開示する傾向が強くなってきていることからは、修復家のみならず作品をとりまくひとびとのなかでドキュメンテーションの価値が意識されるようになったことが伺える。保存修復のための調査やそれに基づく情報提供に対する美術館側の姿勢に関しては、情報を共有するネットワークを築くことが今後さらに求められるようになるだろうと森氏が答えた。また、復元的修復よりも現状を維持する修復を重視する傾向は、ここ二十年ほどで強くなってきていると言う。以上の応答から、情報を守ること、すなわちドキュメンテーションが、作品保護に関わるひとびとにとってきわめてアクチュアルなテーマであることが示された。会場からは、マチエールの多様化を遂げる現代美術の修復現場において修復素材の可逆性はどの程度まもられているのか、という問いがだされた。これに対してラーヴァ氏は、古典的な素材を用いることもあれば、素材どうしの適合性の問題から過去に例のない素材を用いることもあるが、可逆性をまもることはつねに念頭に置かれていることだと答えた。そのような新しい素材の情報も、今後共有されていかなければならないだろう。修復家がその作業を通して触れる作品の微細な情報にはじまり、過去の介入例、作者と所有者の声といったさまざまな「情報」を蓄積するとともに調停することで、「何を、いかに、どこまで」という冒頭の問いに応えてゆくことが求められているのかも知れない。(井岡詩子)