小特集 インタビュー ポスト・ミュージアム時代の近代美術館

ポスト・ミュージアム時代の近代美術館|三輪健仁(東京国立近代美術館 主任研究員)|聞き手:池野絢子、江口正登|記事構成:江口正登

── 今回の『REPRE』では、「ポスト・ミュージアム・アート」という小特集を企画しています。
近代的な美術館というものが、絵画や彫刻というジャンルの伝統的な区分を前提としたものであったならば、ポストメディウム的な発想や実践(つまり、混淆的で自己差異化的な発想や実践)は、それと齟齬をきたすものではないのか。ポストメディウム的な状況に対し、美術館はどのように応答しうるのか。そういうことをテーマにする特集企画です。
そのように考えてみると、東京国立近代美術館が近年実施した「ヴィデオを待ちながら:映像、60年代から今日へ」展(2009年)や「14の夕べ」(2012年)といった企画は、まさにそうした問いにアクチュアルに取り組んだものであるように思われました。そこで、これらを企画なさった三輪さんにぜひお話をうかがいたいと思った次第です。

近代美術館という場

三輪:私はこの美術館に勤めて10年あまりになりますが、基本的には、近代的な美術館という空間・制度や、絵画・彫刻といった伝統的なジャンルが――それはある人たちからすれば時代遅れなのかもしれないけれど――自分が美術を捉える際の基礎となる、重要なエレメントであるという認識は一貫しています。
たとえば「ヴィデオを待ちながら」展はすべて映像作品で構成されていましたが、美術における映像を用いた作品を網羅的に扱うことが出発点ではなかった。むしろ、1960年代から70年代にかけて、特にアメリカを中心に、もともと絵画や彫刻を制作していたアーティストたちが、それらのメディウムによる制作と同時並行的に、映像に手を染めたという特殊な状況があって、そこに関心を持っていました。この状況には当然ながら1960年代にヴィデオという媒体が出現したことが大きく影響しているのですが、そうした新しいメディア、表現手段が出てきたときに、扱うツールが変わったから別のことをやるというモチベーションだけではなくて、そもそも彼らが絵画や彫刻で追求してきたコンセプトなり表現なりを、ある意味では、映像に変換している、そういうふうに私には見えたんです。たとえばリチャード・セラの映像作品、《鉛をつかむ手》や《レイルロード・ターンブリッジ》などには、映像でこそ表現できるものでありながら、やはり絵画的、彫刻的と言うしかない質が確保されているように思える。先ほど言ったように私の場合は、絵画や彫刻が美術を考えるときの出発点になっているので、それらとの関係のなかで映像を扱おうとしたのが「ヴィデオを待ちながら」展でした。
一方、「14の夕べ」はおおざっぱに言えば「パフォーマンス」を扱った企画ですが、パフォーマンスが美術館で扱われてこなかったかというと、そんなことはありません。近代美術館が成立して以来、常にパフォーマンスはそこにあったと言っても良い。でも、その多くは付随的で、いわば「おまけ」的な扱いだった。たとえば、現代美術のグループ展があったときに、インスタレーション的な作品を作っている人であれば、それはそれとしてひとつ空間を構成しておいて、週末だけ別途パフォーマンスをやる、といったふうに。あるいは、展示されているものがパフォーマンスのための舞台だとすると、パフォーマンスは週末にしか行われず、それ以外の期間は、ある種残骸のようなものとして舞台装置が展示されているだけ、ということになる。しかしそれらのパフォーマンスにはとても面白いものがあると感じていて、おまけ的な扱いで済ますのは非常にもったいない。そこで、なんとかパフォーマンスだけに特化した企画を美術館で扱うことはできないかと考えました。
「14の夕べ」に出演してもらった、特に美術系のアーティストたちには、やはりパフォーマンスだけを行っている人はあまりいなくて、他のメディアと同時並行的にやっていることが多い。なので、パフォーマンスを扱うときにも、やはり常に絵画や彫刻といったジャンルが出発点や基本にあり続けているという点は、「ヴィデオを待ちながら」展と同様のモチベーションです。
絵画や彫刻というジャンルに加えてもうひとつ言うと、近代美術館という場所でやるということも、私にとっては重要な条件でした。ポストメディウム的な発想や実践と近代的な美術館は齟齬をきたすものなのではないかとおっしゃられましたが、それはある部分事実だとも思うのですけれど、その一方で、近代的な美術館というあり方自体に対して、私はすごく否定的であったり、悲観的であったりするわけでもないんです。近代的な美術館という制度や空間にはまだまだ掘り起こすべき潜在的な可能性があると思っています。たとえば屋外、路上、あるいはメッセ会場のような場所とは、全然異なる質なり条件なりを(東京国立近代美術館に限らず)近代美術館という場は持っていると思います。そういうところで映像を展示したり、パフォーマンスを行うということが重要だと思っていて、それは強く意識していました。

── 近代美術館という場、ということに関して、もう少し具体的におうかがいしたいのですが。

三輪:私の認識では、近代美術館というものは本来、やはり絵画や彫刻が展示されている場所です。しかも東京国立近代美術館の場合には、1階の企画展を行うテンポラリーな空間と、4階から2階の、日本の近代美術史を見せるコレクション・ギャラリーが常に、同時にあります。そうした蓄積というか歴史というものが、この近代美術館という空間全体に宿っているということが、美術館に来る人には与件としてあります。「14の夕べ」を行ったテンポラリーな空間も、通常は絵画や彫刻といった歴史的な作品が壁にかけられていたり、彫刻台の上に載っていたりすることのほうが多い、そういう場所です。「14の夕べ」をやったときはがらんどうの空間だったんですけれど、そこはもともとそういう空間であるという与件があったということが重要だと思います。
それがつまり、屋外やメッセ的な会場とは違うと先ほど言ったときの意味です。普段絵画や彫刻が展示されている場所には、それを鑑賞するときのルールが付随します。演劇や音楽のためのホールとは違う条件がおそらくそこにはある。近代的な美術館の空間は「ホワイトキューブ」と言われるけれど、やはりその空間には、たとえがらんどうであっても、作る人なりパフォーマンスする人、そして観に来る人が意識せざるを得ないような条件がもう発生してしまっている。近代美術館という場が条件であるというのはそういうことです。ちなみにこのあたりのことは、『ドキュメント|14の夕べ;パフォーマンスのあとさき、残りのものたちは身振りを続ける…』(2013年、青幻舎)に岡﨑乾二郎さんが寄せてくれた卓抜な論考「日々の諍い、あるいは法外な経験」で刺激的な論が展開されているので、ぜひ読んでいただきたいと思います。
パフォーマンスを行うアーティストたちにとっては、このような場の条件をどれだけ意識して自分の作品に取り込めるかということが重要でした。「14の夕べ」には音楽や演劇、ダンス、美術のアーティストが出演していたのですが、ここは美術館だから美術を専門にしているアーティストが圧倒的に有利な状況だったかというと、そういうわけではなかったと思います。あんな壁も何も立っていないがらんどうな空間というのは、美術家の人たちが普段展示する条件や空間ともまったく違っていた。つまり、あそこに集まったいろんな人たち誰にとっても、普段やっている勝手知ったる場所ではなかったんですね。そこで、いま言ったような空間的な条件、質をどれだけ読めるかが問題になります。つまり普通に考えれば、演劇を観るなら演劇の人たちが普段やっているような劇場、あるいは音楽を聴くなら音響設備がきちんと整ったホールで聴く方が良いのだと思うのですけれど、そうせずに、あの場所でやることに何か意味があるのだとしたら、そうした近代美術館の空間という条件を、どれだけ出演者の人たちが読んでできるかというところにあるのかなと思いました。

── 「14の夕べ」は近代美術館の改装中の企画だったんですよね。この改装中であるということは、この企画の前提として重要だったのかなと思っていましたが、先ほどの、がらんどうではあるけれども、本来は絵画や彫刻が展示されている空間であるという与件が観客に抱かれていることが重要だったという話を踏まえるならば、むしろ改装期間中でなくても(もしくはない方がより)良かったのかな、という気もしたのですが、そのあたりはいかがでしょう。

三輪:はい、コンセプト的には必ずしも改装期間にやる必要はありませんでした。ただ、そうした仮設的な感じがイベント自体に強く出たということでは、改装中にやって良かったのかなと事後的にではあれ、思っています。
パフォーマンスは、絵画や彫刻みたいにモノとしては残らないということがよく言われます。それはある意味事実だと思うので、パフォーマンスを扱う時点で、物理的に残らない対象をどうやって扱うのかという関心が最初からありました。『ドキュメント|14の夕べ;パフォーマンスのあとさき、残りのものたちは身振りを続ける…』という本を作った大きな理由もそこにあります。で、残らないものをどう残すかという、やや倒錯したことに取り組むのならば、一つひとつの出来事自体を極限までテンポラリーなかたちにしたいという思いがありました。たとえば一日目に出演してくれた東京デスロックには、この企画のために新作を制作してもらいました。演劇の新作であれば、稽古の労力や、本番を繰り返すなかでのリヴァイズといったことを考えると、何回か公演をするべき、したいというふうに普通は思いますよね。でもそこをあえて、全部のプログラムを一回しか上演しないかたちにしました。しかも、準備のことを考えると、14日間連続でやるというのも相当つらいわけです。一日でひとつのプログラムが終わって、その次の日にはもう次のプログラムをやらなければならない。会場の施工はとても大変です。でも、一日あいだを置くということはせず、次の日になると、同じ場所でありながら、そこにまったく別の空間が現れ、まったく別の出来事が起きる。それが14日間ずっと連続しているという状況を作りたかった。そんなふうにして一つひとつのプログラムはすぐに過ぎ去っていくのだけれど、イベント全体は一定期間ずっと持続しているという感じをどれだけ強く出せるかということを、最初から考えていました。改装期間中にやったことで、その印象をさらに強めることになった気もするので、悪くなかったかなというふうに思います。コンセプトにもともとあったわけでは必ずしもないのですけれど。

── 『ドキュメント|14の夕べ;パフォーマンスのあとさき、残りのものたちは身振りを続ける…』に三輪さんが書かれた文章には、(「14の夕べ」を)最初は通常の展覧会として企画しはじめたが、最終的にイベントという形式に帰着したという話がありましたが、いまのお話をうかがうと、展覧会という形式で企画していたときにも、改装期間中という条件とは関係なく考えられていたのでしょうか?

三輪:関係はありました。もともと「14の夕べ」は、1952年に開館した東京国立近代美術館の60周年企画として立ちあがったものだったんです。2012年の60周年の秋に、コレクション・ギャラリーをリニューアルすることが決まっていたのですが、「14の夕べ」を行った1階の会場はリニューアルの対象ではなかった。そこで、改装期間中に1階の会場だけを使って何かできないか考えたときに、パフォーマンスという案が思い浮かんだんです。美術館でパフォーマンスをどう扱えるかということ自体は以前から考えていました。エントランスのホールや展示室でない場所でパフォーマンスをやることはもちろん可能だと思ったのですけれど、さっき言ったおまけ的な扱い、という問題ゆえに、そういうやり方はしたくなかった。絵画や彫刻を扱うように、パフォーマンスを「展示」すること、というふうに考えていて、そこに改装期間に1階の会場に空きがあるという話が出てきたという感じです。壁を立てたり、会場を作り込む必要もないので、短い期間のなかでできるだろうという計算もありました。
で、閉館している期間が二ヶ月ぐらいあったので、いわゆる普通の展覧会のようにできるんじゃないかと最初は思って、展覧会形式でやりたいと提案しました。ただ、そうすると、出品、出演できるアーティストは相当制限される。アイディアとしては面白いと思ったんですけれど、実際に組み立てていくとなると、かなり制約が出てきてしまうところがあった。それで日替わりプログラムで14日間のイベントというかたちにすることになりました。でも、たとえば展覧会という形式を明らかに意識した橋本聡さんのプログラム《偽名》を考えてみると分かりやすいと思いますが、このイベントを一日限りの展覧会を14回連続でやった、というふうに考えることもできます。

1234