小特集 研究ノート 河上 春香

都市への二重の眼差し
――シュルレアリスムとプラハ
河上 春香

近年、シュルレアリスム運動の国際的展開に対する研究が進む中、チェコ、そしてプラハという土地がこの運動に関して担った役割に注目が集まり、紹介が為されつつある。チェコ科学アカデミー美術史研究所のレンカ・ビジョフスカーは、シュルレアリスム運動の展開において、プラハはパリとブリュッセルに並んで最も重要な都市のひとつであると述べている(※1)。そこは詩人カレル・タイゲ、ヴィーチェスラフ・ネズヴァル、画家トワイヤンやインジフ・シュティルスキーといったシュルレアリスム作家たちの活動拠点であり想像力の源泉であったと同時に、またアンドレ・ブルトンやフランスのシュルレアリストたちにとっても一定の重要性を持つ場所であった。本稿では、チェコとフランスのシュルレアリストたちの交流を追いつつ、運動の展開の中でプラハという土地に注がれた二つの眼差し、内からの「生活者」としてのそれと外からの「旅行者」としてのそれを素描し、国際的な運動であったシュルレアリスムの複数性の一例を示したい。

20世紀初頭、プラハは前衛芸術の諸潮流が欧州各所から集まってくる場所であった。オーストリア=ハンガリー帝国期の末期から、ベルリンやパリとの交流を通じてキュビスムや未来派が紹介され、特にキュビスムのスタイルをデザインや建築に応用するという独特の総合芸術運動が花開く。その後第一次世界大戦を経て、チェコスロヴァキア独立から間もない1920年、左翼的傾向を共有する若手の作家たちによって前衛芸術家集団デヴィエトシルが立ち上げられ、これが後のシュルレアリスト・グループの母体となった。芸術による人民への奉仕、芸術の民主化、また応用芸術とハイ・アートの垣根を排した包括的な美学の追求を綱領として掲げ、その志向はダダやバウハウスや生産主義といった当時の前衛諸芸術が混淆したものであった(※2)。1924年、パリで『シュルレアリスム宣言』が上梓されたその年に、デヴィエトシルは日常生活のうちに詩的な想像力と芸術を見出そうという「ポエティスム」の思想を掲げる。以来、日常の詩性はチェコスロヴァキア芸術と文芸において重要なモティーフであり続けた。

デヴィエトシルのメンバーであったネズヴァルは『ナジャ』の愛読者であったといい、1933年、パリにブルトンに会いに行っている(※3)。同年『革命に奉仕するシュルレアリスム』の第5号にデヴィエトシルの名でシュルレアリスムとの協働を宣言する声明が掲載された。そこでは1930年にソ連で行われたハリコフ作家会議(第二回国際革命作家会議)に触れ、「この会議を刈り取ってしまった《悪趣味なマルクス主義》の傾向」への抵抗の気持ちを共有するものであると表明する。そして、ブルトンが1929年に『シュルレアリスム第二宣言』で書いた「至高点」に関する一節、すなわち「生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能なものと伝達不可能なもの、高いものと低いものとが、そこから見るともはや矛盾したものに感じられなくなる精神の一点(※4)」を思わせる「現実と超現実、内容と形式、意識と無意識、[目覚めているときの]活動と夢[の活動]のあいだに我々が永遠の葛藤を見ることはないとすれば、同様に、革命と進化、発明と伝統、必然と偶然、冒険と秩序の間の表面的な差異はもはや根拠を失うように見える」という文言が続き、この「マルクス的弁証法」においてデヴィエトシルはシュルレアリスムと立場を同じくすると述べる(※5)。「チェコスロヴァキアにおけるシュルレアリスム」という宣言文が起草され、プラハで正式にシュルレアリスト・グループが成立したのはその翌年のことであった。

それまでのポエティスムの流れもあり、チェコスロヴァキア・シュルレアリスムは当初から芸術と生活の融合、そしてそれを政治的行動に結びつけることを重視していたことが伺える。そこではプラハという土地の風景、あるいは生命とも言うべきものが大きな役割を果たしていた。

例えばネズヴァルはプラハについての詩をいくつも書いている。そのうちのひとつ、1936年の「塔の街」(Město věží)を取り上げよう。すべてをここに転載することはできないが、以下にその冒頭を訳出する(※6)。

百塔のプラハよ
すべての聖人の指の
偽証の指の
火と小麦の粉の指の
音楽家たちの指の
腹這いの女の眩暈のするような指の
夜の算盤の上の星に
触れる指の
指のきつく閉じたのと共にそこから夕暮れが噴き出してくるような指の
爪のない指の
もっとも小さな子とさししめされた草の指の

日本語のガイドブック等に現在でも見ることができる「百塔のプラハ」(Praha stověžatá)は、プラハに関する非常にオーソドックスな形容で、19世紀から使われているという。ネズヴァルの詩はそのありふれた表現から始まり、たちまちのうちに「塔」を「指」として、歴史上の人物、街の人々、鳥たち、ペトシーンやロレッタといった歴史的な建造物までを自在に結びつけ、以下のように締めくくられる。


関節のない長い指の
わたしがこの詩を書いている指の

壮麗な、しかしいわば死せるものである石造りの建造物が立ち並ぶ場所としての「百塔のプラハ」を「百の指のプラハ」と置き換えることで、ネズヴァルは、自分自身もその一部であるような、古い街並みと人々の生活とがひとつながりになったプラハという都市の生命を描き出した。

こうした都市の生命に対する感受性は、同時期のインジフ・シュティルスキーの写真にも見出すことができる。彼は見世物小屋の暗幕やショーウインドウのマネキン等、人の形をしたもの、あるいは手袋や義足などの身体の一部を模したものを頻繁に被写体とした。阿部賢一は「シュティルスキーの写真を眺めていて伝わってくるのは、人間は直接映し出されていないにも関わらず、確実に感じられる人間の痕跡である(※7)」と述べ、遊歩者としてのシュティルスキーの欲望と共鳴する「オブジェ」があらわれていることを指摘する。筆者はここでは、シュティルスキーがこうした人間(の一部)の形象に、写真を通じて生命の気配を与えていることを強調しておきたい。そこにはオブジェの生命があり、遊歩者の生と交流する街の生命がある。こうした写真の一部はナチス・ドイツの占領下の1941年、ユダヤ系の作家であるインジフ・ハイスレルの詩とともに、『このごろの針の上で』(Na jechlách těchto dni)として地下出版される。シュティルスキーがとらえた都市の生命は、より政治的な意味を帯び、都市を支配するナチズムへの抵抗点として世に送り出された。自らの内的な生、都市の生、そして政治的抵抗を総合することを志向した運動体としてのチェコスロヴァキア・シュルレアリストは、生活者としてプラハをそれ自体生きた場所としてとらえていたと言えるだろう。

それでは、外からの眼差しは、プラハをどのような土地として見ていたか。

1935年、アンドレ・ブルトンが当時の妻ジャクリーヌ・ランバやポール・エリュアールと共にプラハを訪れ、講演「オブジェのシュルレアリスム的状況」を行った。ブルトンがチェコスロヴァキアを訪れたのはこの一度きりであったが、この都市は彼に強い印象を与えたと言われる。彼は講演の中でプラハに林立する塔に触れ「老いたるヨーロッパの魔法の首都(※8)」と形容した。ずっと後の1953年、パリに亡命していたトワイヤンの展覧会で発行されたモノグラフに寄せて彼は「魔術的首都」という言い方を再び用いながら以下のようにプラハをたたえている。

立ち並ぶ彫像の垣をもち、昨日から永遠へわたされていた壮麗なその橋、外からではなく内側から光を発していたその看板の数々――(中略)そしてとくに、他のどこよりも激しかったその理想と希望の沸騰、鷗たちがモルダウ河をいちめんに撹拌して星々を噴き出させようとするあいだに、詩と革命とをひとつのものにしようと願う人間の水面す れすれに生まれたあの情熱的な交流――(※9

こうしたヴィジョンがブルトンの自身の生と深い共感に根差したものであり、スターリニズムの体制からこの都市の姿をイマジネーションによって救い上げようとするものであることは間違いないだろう。しかしそれでもなお、ここに描かれたプラハは、先程扱ったネズヴァルの詩とは趣を異にする、一種の神話の、あるいは英雄譚の舞台に近い。

デレク・セイヤーによれば、ブルトンはプラハ郊外、ビラー・ホラに位置するレトフラーデク・フヴィェズダ、直訳すれば「星の城(※10)」に特にインスピレーションを受けていたという(※11)。ところで、このビラー・ホラは、チェコの歴史のなかでは必ずしも良い意味を持ってはいない。1620年にこの場所で勃発した白山の戦いは、その後ボヘミアがハプスブルク帝国の支配下に入るきっかけとなったのである。つまり民族主義的な意味合いの強い土地なのであり、社会主義体制下のフヴィェズダ城は、そうした文脈から国民的権威であった作家アロイス・イラーセクを記念する博物館となっていた。ブルトンはフヴィェズダ城をこうした文脈から取り去り、いわばシュルレアリスム的オブジェとして愛したのであろう。しかし、1968年「プラハの春」と呼ばれる雪解けの時期に当地を訪れたパリのシュルレアリストたちはこうした経緯を知らずにフヴィェズダ城を「巡礼」したがり、プラハのシュルレアリストたちから失笑を買ったという(※12)。パリからの来訪者たちにとって、プラハは実際に生きる場所であるというよりは、やはり伝説の場所、憧れの対象になってしまうことを免れえなかったということなのかもしれない。しかし、ここで伝説や神話が後期のブルトン、そしてフランス・シュルレアリスムにとってどのような意味を持っていたのかということを踏まえれば、そこには「旅をする者のシュルレアリスム」とでも言うべきものを考える余地があるだろう。

シュルレアリスム運動の展開の中でプラハに注がれたこの二重の眼差しからは、自国と異国、あるいは生活者と旅行者の間で交錯する複数のシュルレアリスムの様相を見出すことができるのだ。

河上春香(大阪市立大学)

[脚注]

※1 Lenka Bydžovská, Against the Current. The Story of the Surrealist Group of Czechoslovakia, Papers of Surrealism, Issue 1, The Centre for the Study of Surrealism and its Legacies, 2003.

※2 西野嘉章『チェコ・アヴァンギャルド――ブックデザインにみる文芸運動小史』平凡社、2006年、pp.60-61

※3 Bydžovská, op,sit..

※4 アンドレ・ブルトン、生田耕作訳「シュルレアリスム第二宣言」、『アンドレ・ブルトン集成 5』、人文書院、1978年、p.57

※5 Vítěslav Nezval, CORRESPONDANCE, LE SURREALISME AU SERVICE DE LA REVOlUTION, No.5, 1933, p.31

※6 Vítěslav Nezval, Praha s prsty deště, Aklopolis, 2000, p.7 訳出にあたっては以下の英訳も参照した。trans. Ewald Osers, Prague with Fingers of Rain, Bloodaxe Books, 2009, p.17

※7 阿部賢一『複数形のプラハ』、人文書院、2012年、p.205

※8 アンドレ・ブルトン、田淵晋也訳「オブジェのシュルレアリスム的状況」、前掲書、p.231

※9 アンドレ・ブルトン、巌谷國士訳「トワイヤンの作品への序」、『シュルレアリスムと絵画』、人文書院、1997年、p.245

※10 レトフラーデクletohrádekは正確には「夏に使うための別邸」を指す。

※11 Derek Sayer, Crossed Wires; On the Prague-Paris Surrealist Telephone, Common Knowledge, Duke University Press, 2012,pp.193-199 .

※12 ibid, p.201