新刊紹介 単著 『モダン・ライフと戦争 スクリーンのなかの女性たち』

宜野座菜央見
『モダン・ライフと戦争 スクリーンのなかの女性たち』
吉川弘文館、2013年2月

断髪にドレス姿で銀座を闊歩する女性たち、タイピストやバス・ガール、ショップ・ガールといった時代を先取りする職業婦人、ボーイッシュな服装に身を包み、くわえタバコでオートバイを走らせるお転婆娘、華奢なからだに不似合いな水着姿でオリンピックの水泳選手をめざす女学生…。本書に登場する1930年代の「モダン・ガール」たちは、くるくると目まぐるしく変わるそのコケティッシュな姿でわたしたちを魅了する。しかし、彼女たちがスクリーン上で繰り広げる明るく平和な「モダン・ライフ」とは裏腹に、近代日本は戦争とファシズムの時代に突き進んでいった…。おそらくこれが、両大戦間期日本についての一般的な歴史理解だろう。しかし、ここで本書は、従来のパターン化された思考の根幹に鋭い疑問を投げかける。一見、相互排他的に見えるこの二つの現象(モダン・ガールと戦争)は、本当に違うベクトルを担っていたのか? むしろこの二つの現象は、相互補完的な要因として日本近代史の基層を動かしていたのではなかったのだろうか? 政治レベルの不吉な動向にもかかわらず、むしろ社会が平和にしか見えない映画ばかりが製作されていたというこの「矛盾」を、筆者はあざやかに「必然」へと切り返す。確かに日本の映画製作は、1931年の満州事変、続く32年の上海事変が生んだ戦争ヒーローを称揚する事変映画を乱発した。しかし、満州事変後の日本映画は、その直前に流行った左翼思想にも、それまで戦場だった中国大陸にも「すっかり関心を失ってしまった」。その代わりに日本映画のスクリーンを埋め尽くしたのは、近代性、それも大衆化された消費の「モダン・ライフ」であった。この消費文化の華やかな、そして時には市民の哀感に寄り添う表象は、同時代の日本の資本主義を称揚することに明け暮れた。そうした「資本主義の論理」への支持が、戦争という帝国主義的なプロジェクトと、いかに同一軌道を描いていたか、その共犯関係を、本書は豊富かつ綿密な事例とともに暴き出してゆく。その論理展開は、さながら推理小説を読み進むような快感を伴うが、その一方で、1930年代を生き抜いた「女性たち」のイメージを読み解く繊細かつ密着した視点を手放すこともない。日本近代史研究、女性史研究、映画研究のみならず、歴史と表象について考察するための想像力を絶え間なく刺激してくれる快著である。(御園生涼子)