第7回大会報告 リヴォルヴィング・エボリューション――アニメーション表象の新世紀|第II部 スクリーニング&トーク

第7回大会報告:リヴォルヴィング・エボリューション――アニメーション表象の新世紀|第II部 スクリーニング&トーク「リヴォルヴィング・エボリューション――アニメーション表象の新世紀」|報告:土居伸彰

2012年7月7日(土) 15:30-17:00
東京大学駒場キャンパス「21 KOMCEE(理想の教育棟)」レクチャーホール

山村浩二(アニメーション作家・東京藝術大学)
【聞き手】土居伸彰(東京造形大学)

【上映】
『カノン』(ノーマン・マクラレン、グラント・マンロー監督、1964年)
『死後の世界』(イシュ・パテル監督、1978年)
『心象風景』(ジャック・ドゥルーアン監督、1976年)
『マイブリッジの糸』(山村浩二監督、2011年)
協力:ジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン、ヤマムラアニメーション

これまでのほとんどのアニメーションに対する言説は、アニメーション=商品という前提を当たり前のものとしてきた。第一部のシンポジウムで中心的な話題となったトマス・ラマール氏の『アニメ・マシーン』は、その前提を前面に押し出し、産業としてのアニメーションが抱えこむいくつもの前提を再考することで、アニメーション研究に新たな視点を導入することになった。そういった点からいえば、この第二部は、同じアプローチによってまったく違ったアニメーションに接近したといえるのかもしれない。日本を代表する短編アニメーション作家山村浩二氏を迎えた第二部が取り上げるのは、商品としての前提が無い(もしくは希薄な)アニメーションが、いかなる原理を内在させているのかということである。

『アニメ・マシーン』が取り上げる「アニメ」の特殊性は、商業的な要求および制約(たとえば一週間に一本30分の作品を仕上げなければならないことに付随するもの)が生み出すものであった。その作品は、より広く、同時により深く、爆発的な流通に乗って広まっていくことが求められる。それに対して、山村浩二氏がそのキャリアを通じて関わってきた短編アニメーションは、そのフォーマットの驚くほどの非経済性ゆえに(完成までに数年を要し、劇場配給やキャラクター産業などのビジネスにもマッチしない)、「知られざるアニメーション」(山村氏のブログのタイトルでもある)ものとして、滞留し、沈殿することを余儀なくされてきた。しかしそのことは、必ずしもマイナスに捉えられるべきではなく、そういったアニメーションだからこそ切り開くことのできる領域が存在するのだ。

山村浩二氏は、最新作『マイブリッジの糸』によって、カナダ国立映画制作庁(NFB)のアニメーション部門で制作を行った初の日本人となった。NFBは、映画産業大国アメリカが隣国であるロケーションや、国営スタジオという特殊性を活かし、市場的にはニッチの分野(ドキュメンタリーと短編アニメーション)を二つの大きな柱として、製作費の回収を一義的に考えない、採算の取れない作品を積極的に作りつづけてきたスタジオである。そのアニメーション部門は、初代長官のノーマン・マクラレンを筆頭に、数々の優れた個人作家の作品を生み出してきた。

『マイブリッジの糸』は、NFBという場で作られることの歴史性を考慮に入れて作られるものとなったと山村氏は言う。その際のキーワードとなるのは、「難解さ」である。単線的な物語を持たず、いくつもの要素が有機的に絡み合うがゆえに、一度の鑑賞ではその豊かさをとても味わい尽くすことができない『マイブリッジの糸』は、NFBが製作に関わった作品だからこそ成立した。氏は、「アニメ」よりもむしろNFBの先行する作品に影響を受け作家への道を志した。採算を度外視して制作されるNFB作品は、受容のターゲット層をあらかじめ想定することで作られる「アニメ」とはまったく違った態度を、受容者となる観客に対して要求する。制作段階において観客の存在を特に念頭に置かず(山村氏の言葉を借りれば「今現在の観客に受けなくていい」という考えのもと)作られる作品群は、一般的に流通し、消費される大多数のアニメーションがそれとはまったく異なるアプローチを取ることもあって、多くの観客には奇妙なものとして映る可能性がある。それが、短編アニメーションにつきまとう「難解さ」という形容にも結びつくわけだが、しかしその「難解さ」には意味があるのだと山村氏は語る。

近年、アニメーション・ドキュメンタリーが活発に作られている。カメラの光学的記録性に頼ることのできないそのドキュメンタリーは、むしろ光学的に記録しえない事実を積極的に記録しようと試みる。アニメーション・ドキュメンタリーの多くが取り上げるのは、回想に頼ることでしか記録しえない個人的で小さな過去の記憶や、アウトサイダーたちによって捉えられた世界である。(例えば、このジャンルにおける代表作のひとつ『ジは自閉症のジ』(1992)は、自閉症児たちの絵やナレーションを用いることで、彼らがどのように世界を認知しているのかを追体験しようとする作品である。)

アニメーション・ドキュメンタリーは、社会を動かす大きな制度とそこで流通する思考の枠組みの「外」にこぼれ落ちてしまうものに光を当てる。山村氏が指摘する短編アニメーションの「難解さ」の意義は、おそらくそういった流れと関連づけて考えることができるだろう。アニメーション・ドキュメンタリーに限らず、近年の短編アニメーションは、同様のアプローチを取ってきた。たとえば、ブラザーズ・クエイは、自分たちの作品は「1年の13ヶ月目」について語るものであるとする。みなが当然のように一年は12ヶ月しかないと考えているなかで、その「外」にある忘れ去られたものを取り上げるのだ、ということである。

アニメーションは映像メディアのなかでもとりわけ観客に対する強制性が強い。そのことが、第一部・第二部を通じて話題となってきた熱烈かつ閉鎖的なコミュニティの形成につながってきたところもあるだろう。そういった作品と観客との距離感をゼロに近づけるアニメーションにおいて、「1年の13ヶ月目」にあるもののような、俄に受け入れがたい世界が展開されるとき、観客に対して、自分自身の既存の考え方の正しさについての再考を促すことになるのである。

そういった観点から考えると、山村氏の作品は常に、安定し当たり前と考えられる世界のあり方が、実際には根拠のない不安定なものとして崩れさっていくさまを見せるものとなっていることが分かる。『カフカ 田舎医者』(2007)は、主人公の田舎医者のナレーションが物語を進めていくが、しかし、田舎医者は、自分が物語の全容を把握しているように思い込んでいながら実際にはそうではなく、最終的に(田舎医者が語るように)「取り返しのつかないことになる」。山村氏を世界的に一躍有名にした『頭山』(2002)もまた、浪曲師による語りという、楽しく安定したストーリーテリングを採用しながら、最終的には、自分の頭の上にできた池に投身自殺するという超次元的な展開へと観客を強引に連れていく。

短編アニメーションは、当たり前とされている考え方にオルタナティブを提示する。『アニメ・マシーン』はアニメーションの物質性として「運動」に注目したが、それに対して、山村浩二氏はアニメーション表現において常に「時間」についての考察を行ってきた。『マイブリッジの糸』が提示するのは、私たちが日常的に体感するのとは異なる時間のあり方だ。19世紀を生きた映画前史の重要な写真家エドワード・マイブリッジと21世紀の東京を生きる匿名の母と子の物語は、マイブリッジ個人の死によってピリオドを打たれるであろう直線的な時間性と、次代へと永遠に受け継がれていく円環する時間性を二つの大きな軸としながら、最終的に、今この瞬間に過去と未来のすべてが凝縮され、到来するような時間感覚を描き出す。時間についての新たな、そして見知らぬ観念が、アニメーション作品を通じて観客に追体験されることとなるのだ。

山村氏のトークから明らかになったのは、もし短編アニメーションの詩学といったものがあるとすれば、異質なものとしての作品との遭遇によって、観客の既存の思考が破壊され、新たな思考のフレームワークが誕生するような、そういったものであるのかもしれないということである。

土居伸彰(東京造形大学、日本学術振興会特別研究員)