小特集「メタモルフォーゼ」 2.『fashionista』創刊記念インタビュー 3

『fashionista』創刊記念インタビュー
蘆田裕史・水野大二郎

聞き手・構成=小澤京子

Q7:ファッションはすぐれてコンテンポラリーな現象であること、マーケットを前提とした商品でもあることから、作品論にせよ作家論にせよ、批評するとなると「距離感」や「立ち位置」の設定が難しいのではないかと思います。
文芸批評や芸術・アート批評は今日の日本ではほとんど機能しなくなっているように見受けられますし、逆に音楽批評や映画批評などは、実質「マーケティングの一環としてのジャーナリズム」に取り込まれている感がある。
そういう中で新たに立ち上げた「ファッション批評」が採るべきポジションないしアティチュードについて、どのようなイメージやヴィジョンをお持ちでしょうか。

蘆田:文学や美術における批評は、良くも悪くも既にひとつのシステムとしてその世界に取り込まれていると思います。ファッションの場合、批評はほとんど無視されているような状況ですので、逆に「マーケティングの一環としてのジャーナリズム」として回収されないような振る舞いをすることができるのかもしれません。美術批評家は美術業界のなかで活動していますが、私たちはほぼファッション業界の周縁で活動しているようなものです。その立場を逆に有効利用し、ニュートラルな立場をとっていけたらよいのではないかと思います。そうすることで、逆に業界を変容させることもできるのではないでしょうか。

水野:もはや創造性とは姿形の問題ではありません。例えばBOPビジネスという視点は創造的になりうると思います。なぜマーケットを前提とした(すべての)商品が批評に値しないといえるのか、そこを問いかけてみる必要もあると思っています。問題は、たとえ市場に流通すべく開発された商品であっても「新しい価値」を生み出しているかどうかではないかと思います。「新しい価値」と書きましたが、それはジャーナリスティックにいえば「新奇性」として扱われてしまう。もっと実験的な販売や流通のあり方、例えばファッションアイテムのライフサイクルアセスメントを考えるとか、も批評の対象として認めるべきかと思います。
ファッション批評とは、この意味において非常に多岐にわたるはずですし、それを認めるべきだと強く思います。

Q8:『fashionista』創刊号が焦点を当てているのは、もっぱらウエラブル(wearable)な次元でのファッションのように見受けられます。
他方で、「アートとしてのファッション」を見せ、あるいは論ずる試みは、これまでにも行われてきました。
これは、ファッションに知的な言語を与えるきっかけになりうる一方で、ファッション(の批評)をアート(の批評)に取り込んでしまう危険も孕んでいる。 このような「ファッション(批評)とアート(批評)」のときに危うい関係に対して、お二人はどのようなスタンスを採られているのでしょうか?

水野:アートとファッションという関係性は不明瞭である場合があり、いずれ取り組みたい課題ではあります。ファッションはアートではありますが、ファインアートではない。アート(芸術)の一分野にデザイン、文学、演劇、工芸などの諸分野があるのはわかりますが、ファインアート(美術)として扱うのは無理があるような気もします。
僕個人の見解としては、ファッションデザインの創造性をどのように認めるかは、最終的にはファッションデザインの文化的特性を明確にした上でなされるべきではないかと思っています。

蘆田:ファッションは美術(あえてこの表現を使いますが)ではありません。ですので、歴史にしても、概念にしても、ファッション独自のものを作っていく必要があります。ただし、ファッションに美術的な要素を見出すことには何ら問題がないと思います。「着られなければファッションじゃない」という表現をよく見ますが、たとえ着られないものだったとしても、ファッションの文脈で考えることができるのであれば、それはファッションでもあると思います。ジャンルを閉じつつ開くこと、つまりファッションというジャンルの固有性と、他ジャンルへの横断性を同時に考えていくことが必要だと考えています。

Q9:批評と同様に、「メタレベル」から対象に関わるものとして、展覧会(エキシビション)があります。(蘆田さんは実際、現在はキュレーターとしてファッション展に関わっていらっしゃるかと思います。)
さて、現在開催中の「感じる服 考える服」展は、デザイナーたちによる「インスタレーション」を見せる展覧会になっています。
しかしそれはこれまでにしばしば開催されてきた、「アート作品としての衣服を見せる展覧会」とも少し違うのではないか。
個々のインスタレーションでは、衣服→室内空間(ANREALAGE、keisuke kanda)、衣服→音楽(THEATREPRODUCTS)、衣服→時間と運動(keisuke kanda《花嫁のおすそわけ》)のような、衣服から別のものへの「移行」や「変換」が起こっていたように思うのです。
もちろん、ANREALAGEの《wideshortslimlong》や、伸縮性のあるレースを極限まで伸ばして着せたオブジェを展示するSOMARTA、リストカットに通じる皮膚感覚を連想させるh.NAOTOなど、「身体を変容させるものとしての衣服」というテーマも強く見受けられました。
つまり、衣服の本質と可塑性を同時に見せる展覧会になっている。
私はこのような方向性に、「アートをアリバイにしたファッションの展覧会」とはまた別の途を切り開く可能性があるのではないか、と考えました。
お二人のヴィジョンの中にある、「ファッションを見せる枠組・装置・制度」について、お聞かせ頂ければと思います。

水野:まさに仰る通りで、「アートをアリバイにしない」ことがとても大切だと思います。では「ファッションを見せる枠組、装置、制度」とはどのようなものとして規定しうるのか。これは大変難しい課題です。一つ言えることは、ファッションデザインの多様な文化的特性を1つの側面でも深く理解する人が文脈を設定していくことを反復するということです。サステナビリティとファッション、高齢者とファッション、ストリートとファッション……実に多様な切り口がありえるはずです。
デザインとは私たちの日常生活において親しみのあるモノの設計に関わっています。ですから、アートとして切断することで作品の価値を伝えるのではなく、デザインとしてあることに誇りをもち、デザインでありつづけることを可能にするための多様な言説が必要ではないかと感じています。

蘆田:ファッションの展覧会のアポリアとして、服を触れない、着られないということが挙げられます(もちろんそれが可能な展覧会もありますが)。ですが、ファッションを文化的なものとして認知してもらうためには、有効なメディアであるはずです。
さきほどの質問で、服の持つ情報量が少ないという話をしましたが、展覧会は視覚的(あるいは聴覚的)な情報を服に与えることを可能にする場です。また、同時に、ファッションを着るものとしてではなく、「見る」、あるいは「考える」対象として捉えてもらうためにうってつけの場でもあります。『fashionista』におけるファッションの言語化とならんで、ファッションへのまなざしを変容させるために、展覧会はもっと増えてほしいですね。

Q10:『fashionista』は現在、第2号の原稿を募集されています。
「こんな論考を待望しています!」というのはありますか? また、今後の貴誌の展望(編集方針/流通・資金繰りに関する制度化の目処など)について、お聞かせ願います。

蘆田:『fashionista』は私たちの思想や見解を表明する場ではありません。その意味では、私たちが共感できない、あるいは想定していない論考が出てくると嬉しいです。
今後の展望としては、きちんと資金を回収することでしょうか。儲けたいという意味ではなく、関わってくれる人が労働に見合う対価を得られるようにしなければ、継続できなくなってしまいます。たとえばフェアトレードをテーマとした論考が出てくる可能性もありますが、それが掲載されている雑誌が低賃金労働によって成り立っているというのは誇れることではありませんので。
そうして、誰も無理することなく『fashionista』をまずは10年くらい続けられる状況を作ることを目指したいと思います。

水野:多様であること、寛容であること、探究的であること。
『fashionista』の展望は、どのくらい共感していただける人が増えるか次第です。そのための仕組みづくりができればと思っています。

—— 情熱と気迫の感じられるご回答を、どうもありがとうございました。

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