小特集「メタモルフォーゼ」 1.対談 松尾恵×佐藤守弘 6

対談:松尾恵(MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/w)×佐藤守弘(京都精華大学)|森村泰昌とダムタイプの80年代京都文化|聞き手:門林岳史、林田新|記事構成:林田新

インターネット時代のアート

—— かつて河原町がアート・シーンの中心だったとして、では今のアート・シーンの中心はどこになるのでしょうか。

松尾:やっぱりインターネットの影響は大きいですね。いわゆる実空間のなかでのエリアは関係なくなっちゃって、画廊の機能としてメディアのなかで層分けされている。どの地域かではなく、コマーシャルにやってるか貸画廊かというような。それが定着しちゃったので、たとえば今年4月末に国際会議場でアート・フェアをやるんですが、そこでは京都、愛知、大阪がコンテンポラリーとかの枠に一括で入り、地域性はシャッフルされるんですね。

—— そうすると「関西」という括りすらなくなってしまう。

松尾:そうですね。ただ、東京の画廊が京都に出店して大騒ぎになって、まぁ、定着なさっているんだけれども、なんでかって言うと、京都に優れた作家がいっぱいいるからっていうのはひとつあったみたいですよ。京都から出てくる作家は多いですよね。

佐藤:それはやっぱり大学とギャラリーがあって、というシーンが支えているところはありますよね。京都の人口のほぼ一割は学生。ついでに人口の1パーセントが大学教員(笑)。それはひとつ象徴的なところではある。やっぱり京都のアート・シーンというのは、ある意味で大学から始まったんですよね。もしかしたらそれが希薄になっているのかもしれない。

松尾:やっぱり、インターネットが出てきたのはすごく大きいと思うのですよ。あと宅急便ね。インターネットと宅急便があれば、例えば京都精華大学を出てから奈良の山奥に住んでたって、京都出身って言って作品を送ればいいわけです。森村さんやダムタイプがインターネットをいち早く活用してたかというと、そうじゃないけれど、インターネットで配信できる作品だったっていうのは大きいんじゃないですか。森村さんの場合、インターネットで見ても作品の根幹は全然ぶれないじゃないですか。森村さんが何かに化けてるっていうコンセプトはけっして揺らがないし、若干画像の質が悪かろうが面白いでしょ。でも、白髪さんの作品だったら、足で盛り上げたということや絵具の三次元的な様子はインターネットでは見えてこない。インターネットに不向きですよね。それはずっと後になってからのことなんだけど……。ダムタイプの場合も、パフォーマンスだったので動画配信ができた。ちょうど古橋さんの遺作《S/N》(92~96年)のころにインターネットが出てきて、なまのモノを見なきゃっていう時代ではなくなってきてた気がする。

—— 先ほど、白塗り的なパフォーマンスとダムタイプには断絶がありながらも実は連続している部分もあった、端的には同じ空間でなされていたっていう話が出てきました。新しい文化が台頭しつつあるけれども、古い文化も残っていたような80年代京都の空間には、たぶん異質なモノ同士が出会うような環境があったのかなと思います。古いものと新しいものが層をなしていて、出会うなかでお互いに変容していくようなプロセスがギリギリ起こりえた時代だった。森村さんも古橋さんも自分自身を作品として出していったという話がありましたが、その「自己」もそうした変容のプロセスのなかにあったんじゃないか。そうまとめるとキレイすぎるかもしれないけれど……。そうした空間はその後だんだん空洞化し、郊外化と情報化が進んでいって、チャリンコ文化が解体していくんですが、そのさなかにひととき生まれたのが80年代京都という濃密な空間だったのかな、という印象を持ったのですがどうでしょう。

佐藤:第一期ニューウェーブからの連続性はいまだに何となく感じますけどね。それ以前の切れ目がおそらく戦後に一度あって、その次に80年代があって、その次があったかというと、情報化のあたりでもうひとつ切れ目がありそうですけど、実際には漸進的に変わっていってる感じがありますね。松尾さんはちょうど80年代半ばからギャラリーを始められて、ずっと見てこられてるわけですけれど、そのあたりはどうですか。

松尾:アートの変わり方って世の中のほかのことに比べるとすごく緩やかで、世間の人には気がつかないような変化を私たちは大騒ぎして変化、変化って呼んでいるところはあるんです。本当にいろんな事がくっついてきている気がするの。例えば、学校を出た美大生は何するのかというときに、いまではNPOのような非営利なアート活動もある。こうしたものが法案化されることって80年代には到底想像がつかなかったんですよ。絵描きオンリーか、アルバイトしながら絵を書くか、あるいは美術の高校の先生をするとか、そういう生き方が多様化していく社会的な背景がいろんなところにありましたね。これは京都だけじゃないとは思うんですけど、やはり京都はアートのポテンシャルが濃密ですから、微細だけれど絶え間なく変わり続けてきた感があります。最近あらためて、やっぱり私も左京区チャリンコ文化の当事者のひとりやったんやないかなって思うんです。あのころ一番大きかったのは、ひとと一緒にいなあかんという意志だったの。インターネット以前、携帯電話以前、前時代的なメディアのほんまに最後の時代やったと思うのね。いまはインターネットとケータイで夢が叶う時代やけど、その前夜は顔をあわせて集まってたんですよ。そうするとしゃべり言葉の面白いところで、漏れ落ちてしまいそうな部分から実際に話が転がってきたりするから。ケータイとかインターネットとかが本当に定着すると、その気持ちは全部そっちで満たされてしまう。いま、アートにあんまり大きな盛り上がりを感じないのは、生身がぶつからないからなんだと思いますよ。私なんかの世代は、昔ながらのおっちゃんたちのまんまの体質がベースにあって、その後バブリーな外向きの目線を持つようになった。でも、まだインターネットとケータイ以前だったんです。この微妙なのが80年代。80年代に20代をすごした人って、そういう屈託ありげなっていうか(笑)、何かあるんですよ、たぶんね。

—— 本日は貴重なお話をありがとうございました。

(2012年3月31日、MATSUO MEGUMI+VOICE GALLERY pfs/wにて)

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松尾恵

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佐藤守弘

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