現代日本文化のネゴシエーション 映画

『ノルウェイの森』映画化をめぐって

三浦 哲哉

1.村上隆の介入
トラン・アン・ユン監督の『ノルウェイの森』を、評論家の多くが「あの時代」も「村上春樹」もまともに描けていないといって非難したのに対して、この作品をまさにその「反リアリズム」の姿勢において最初にはっきりと肯定したのは村上隆である。

公開から約2週間たった昨年の12月21日、村上は『ノルウェイの森』激賞のメッセージを自身のTwitterアカウント @takashipomから発信しはじめる。そしてこの作品を「新しい映画のはじまり」を告げる傑作だと断定する。それは小さなブームを形成し、実際にこの作品の評価を部分的に変えた。

村上隆が村上春樹原作の映画に肩入れしたのには必然性がある。この論考では、村上隆の介入が何を意味するのか、また、村上が言う「新しい映画」とは何か、そして『ノルウェイの森』が実際にその「新しい映画」になりえているかについて考えてみたい。

まず、村上の Tweet の最初のいくつかを引用しよう。

「『ノルウェイの森』の映画、は、ハッキリ言って最高だった。もう脳みそがちょちょぎれた!例えていうなら、、、って、俺の個人体験だから比喩にもならんが、生まれて始めて現代美術観て感動したけど、その意味、理由、全然わからん。だから勉強し始めなきゃという感じ。なんの勉強か?って??」(2010-12-21 10:05:35)
「映画の文法『グラマー』をしっかり勉強せねばならないと言う事。そして、もひとつ。村上春樹の文法。これもしっかり分からないと何がなんだか分からなくなると思う。『ノルウェイの森』は村上春樹ワールドの代表的な作品だけれども、こっちの世界、向こうの世界、の構造が」(2010-12-21 10:07:46)
「融和した世界観をどのように感じ、解釈可能か、という作者からのチェスゲームのような作品だ。そのゲームの応酬のライヴを見せてくれるのが、映画『ノルウェイの森』だ。ベトナム系フランス人監督トラン・アン・ユンの映画の文法を利用して、村上春樹の世界へダイヴして行こうと言う試みの1つ1つが」(2010-12-21 10:09:45)
「もう、死ぬ程スリリング!(以下略)」(2010-12-21 10:12:55)

この続きは以下のURLから読むことができる[http://togetter.com/li/81298]。村上はこの映画において「村上春樹の文法」とトラン・アン・ユンが提示した「映画の文法」が二重に用いられていると言う。この両者をそれぞれ理解することによって、一見してチグハグでわけのわからないこの作品の価値を捉えることができる。ただひとつの「現実」が忠実に描かれているかどうかではなく、ふたつの文法を踏まえて、観賞者が生産的な解釈をなしうるかどうかが問題である。それが村上の提言だ。

2.投機的解釈
さて、それではその「映画的文法」とは具体的に何か。村上の一連の発言でもっとも興味深いのは、煽った当人の村上が、未だその「文法」を知らないとはっきり述べていることである。彼がはじめて「現代美術」に開眼した経験と重ねられていることからもわかるように、村上自身、その「文法」を十分把握しておらず、つまり語られているのは何かが始まっているという予感であるにすぎない。

予感の範囲で村上が書いたことを、もう少し踏み込んで読み進めてみよう。第一に、村上春樹の原作小説は、あの世とこの世の往還を主題にした幽霊譚である。自殺したキズキとその親友だった主人公のワタナベが、中間にいるヒロイン直子をいわば引っ張り合う物語。ワタナベと同じ僚で暮らす先輩の永沢さんとその恋人も、生者と死者のカップルのヴァリエーションである。セックスはそこで生と死の領域の通路を意味する。そして第二に、ユン監督は、この生者の領域と死者の領域の相互浸透を、様々な視覚的暗喩を駆使して、きわめて高密度に表現した。

「全てはSEXのメタファーによって、異界への出入り口を示唆し続けている。ココが肝です。」(2010-12-21 11:44:58)。

村上が未だ十分に理解していないと言っているのは、この映画的な「暗喩」のコードのことである。

村上の提言は、したがって、本人にとっても、一種の賭けである(まだ彼もその「文法」を共有しているわけではないのだから)。村上がしたのは、「ゲーム」が演じられているはずだという「見立て」を共有することで、本当にゲームを始めてしまうというアクロバティックな実践だったと言えるだろう。村上隆は『ノルウェイの森』にひとつのフィルターをかけてみせる。「この映像は生者と死者のエロティックな干渉を意味しているはずだ」。そのように見立ててみれば、一見して無意味な細部やカメラの動きに、様々な事柄が見い出せる気がしてくる。あの鏡に映る顔は…森の向こうの闇は…など、無際限に。

その結果、『ノルウェイの森』は、あらかじめ意味の定められた、ひとつの完結した「作品」であるのではなく、観客の生産的な解釈によってはじめてその姿を顕在化させる、そのような映画として再規定される。読めるから面白いのではなく、面白いから読むのでもなく、共にコンテクストを創ること。村上隆が開始したのはそのような意味における「投機」だった。『ノルウェイの森』に新しさがあったとするなら、そのような「投機」の対象となった点においてである。

この「投機」は成功したと言えるだろうか。村上の提言を起点として『ノルウェイの森』の小ブームが実際に起きたのだから、その点では間違いなく成功である。この映画を肯定的に評価する観客は、現実に急増した。確かにそれは「ARTIST=起業家」村上隆にしかできない離れ業だった。しかし、予感された「文法」が、村上のフォロワーたちによって確定されたり、増殖させられたりしたかといえば、そうではない。Twitterで次々と述べられた作品評のほとんどは、「村上さんの言うとおり、深い、感動的な作品でした」というたぐいの印象論にとどまっている。その意味で、『ノルウェイの森』はいまだ空虚なバブルのままである。

3.ハイコンテクスト
『ノルウェイの森』は、観客による産出的な解釈ゲームの対象となった点で新しい。ではその内在的な条件は何か。それは「抽象性」と「ハイコンテクスト性」である。再び、村上のTweetを引用しよう。 

「なぜ、わしが推すのか!その理由はハイコンテクストの作品を理解した時の快感を感じて欲しい。それが現代美術鑑賞への導線となるからなのです」(2010-12-21 13:45:33)。
「そして抽象表現主義を経てPOP、ミニマル、ネオエクスプレッショニズム、そして、我田引水だが、、、SUPERFLATへ。見方の進化の禁断の果実をかじってしまったとたんに、逆戻りは出来ない」(2010-12-25 10:49:51)。
「『ノル森』はその意味でもある意味抽象化発祥の映画作品として、今後の指針になるかもしれぬ。そういう革命的な作品であると言えよう(以下略)。」(2010-12-25 10:51:30)。

村上がしたのは、映画『ノルウェイの森』を自分のフィールドであるARTに引き寄せることだった。「SUPERFLAT」と同様に、しかるべき「抽象化」がなされている点で、『ノルウェイの森』は「革命的」である。

村上は、「コンテクスト」という概念を、斎藤環の議論から援用している。斎藤が述べているのは、次の一般的な傾向である。映画は精細度が高く(相対的にリアルであり)、ローコンテクストなメディアである。対照的に、画面あたりの情報量が少ない、あるいは精細度が低いメディアほどハイコンテクストに傾く。単純化された描線を用いた日本のアニメやマンガがその典型である。『ノルウェイの森』の画期性は、映画であるにも関わらず、「ハイコンテクスト」だった(と見なされた)点にある。

4.「地図」の哀しさ
「抽象性」と「ハイコンテクスト性」。周知の通り、それは村上春樹の原作小説の最大の特徴でもある。ふたりの村上に共通するのは、「抽象化」の操作によってグローバルな成功を勝ち取った点である。「MURAKAMI」は、日本の「クール」でハイコンテクストな文化の別名であるのだ。小説『ノルウェイの森』において、主人公の「僕」ことワタナベがどのような容貌の持ち主なのかはよくわからないし、直子にしても「美しい」ことはわかるが具体的な容貌が詳細に描写されるわけではない。村上の描写の特徴は低精細度にある。地方色と体温を捨象した「クール」な文体。代わりに、ユング的無意識を構成する様々な神話素が巧みに組み合わされ(村上春樹、河合隼雄『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』岩波書店、1996年)、ハイコンテクストな(意味ありげな)物語が構築される。

『ノルウェイの森』は、半ば村上の自伝的な作品であり、キャリアの前半の要となる作品であるが、彼はそこで自らの文体の特徴である「抽象性」を、「地図」の主題において自己解説している。

「もっと昔、僕がまだ若く、その記憶がずっと鮮明だったころ、僕は直子について書いてみようと試みたことが何度かある。でもそのときは一行たりとも書くことができなかった。その最初の一行さえ出てくれば、あとは何もかもすらすらと書いてしまえるだろうということはよくわかっていたのだけれど、その一行がどうしても出てこなかったのだ。全てがあまりにもくっきりとしすぎていて、どこから手をつければいいのかわからなかったのだ。あまりにも克明な地図が、克明にすぎて時として役に立たないのと同じことだ。でも今はわかる。結局のところ──と僕は思う──文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な想いでしかないのだ」(『村上春樹全作品1979〜1989』第6巻、講談社、1991年、17頁)。

言葉は「地図」である。それは意味を成す代わりに、現実を希釈し、抽象化する。距離を置き(ディタッチメント)、忘れることによってはじめて、「文章」が可能になる。小説の冒頭に置かれたこの「地図」の言語論は、その後もメランコリックな調子を帯びて再三、繰り返される。

主人公のルームメイトで「突撃隊」とあだ名された男は、将来、地図制作に携わることを夢見る地理学部の学生という設定である。無口な「僕」が女友達に語ってきかせることのできる話といえば、この「突撃隊」の滑稽なエピソードだけなのだが、その都度、「僕」は後ろめたさを感じる。「そんな突撃隊の話をすると直子はいつも笑った。彼女が笑うことは少なかったので、僕もよく彼の話をしたが、正直言って彼を笑いの話のたねにするのはあまり気持ちの良いものではなかった」(前掲書、43頁)。

『ノルウェイの森』は、ハンブルク空港に降り立った「僕」による一人称の回想である。その言葉のすべては、自殺した直子が中心にいたあの頃の記憶が、忘れられ、薄められるという「抽象」の産物である。こうして「クール」は、「哀しさ」の感傷によって補われ、強い訴求力を持った(「向こう側」へ誘いかける)テクストとして完成する。『ノルウェイの森』に村上隆が肩入れする理由はここにある。その原作小説が、そもそも「抽象化発祥」をめぐる小説であるからだ。

5.ローコンテクストのナンセンス

以上、映画版『ノルウェイの森』が、村上春樹的でもあり村上隆的でもある「ハイコンテクスト」な新しい映画として再起動させられる過程を辿ってきた。しかし、そこに「乗る」か「乗らない」かはまた別の問題である。すでに述べたように、映画版が用いる「文法」は、まだ確定されたわけではなく、すべてはバブルにすぎないという可能性もある。

そこで最後に、「私」の見解を述べたい。私は、実際のところ、村上隆が提示した「新しい見方」を受け入れることができなかった。言葉にするとまったく馬鹿馬鹿しいある個人的な理由が、『ノルウェイの森』の「抽象化」を拒んだからである。それは、主演の松山ケンイチが私自身に似ているように思えたという理由である。個人的で、共有不可能なこの思い込みのせいで、映画の見方は一変した。似ているというのは、とりわけ歩き方と話し方のことだ。松山は青森出身であり、その東北特有だと思われる朴訥とした話し方(あれは単なる「棒読み」ではない)を、福島出身の自分は、強い既視感(既聴感?)とともに聞くことしかできなかった。そして歩き方。『ノルウェイの森』は、登場人物たちの歩行する場面に多くを割いているが、松山の歩き方が、どうにも自分の歩き方に似ているように思えてならなかった。これはおそらく偶然の一致で、たぶん骨格と筋肉の質がDNAレベルで近いのだとしか思えない。なにも私はここにきて自己愛を吐露したいわけではまったくなく、動くイメージの中で精細に表現された、自分と部分的に共通するある情動の束を再認したという客観的な事実を述べたいのだ。

それは別に「私」と「松山ケンイチ」の関係である必要はなく、誰か別の観客と「菊地凛子」の関係であっても良いだろうし、あるいはまったく偶然に、特定の建物の構造や、風景のひとつが強い「再認」を誘うというようなきっかけでも良いだろう。問題にしたいのは、映画が「高精細」である限り、そのような偶然は排除されず、そして、そのような偶然の一致が起きたとたん、その作品は「ハイコンテクスト」であることを止め、「ローコンテクスト」、究極的には「ゼロコンテクスト」へ接近するということだ。そこで喚起される「既視感」は、村上春樹の小説で描かれた、「言葉」における対象喪失の「哀しさ」をまったく帯びていない。

私にとって映画版『ノルウェイの森』がなにより驚きだったのは、原作にあった感傷が一切、消え去っていた点である。

村上春樹の小説において、たとえば「直子」の描写は、それ自体、喪失と忘却と表裏一体であり、それゆえに「哀しい」のだし、過去への訴求力が生じる。ところが、映画版において現れるのは、身も蓋もない菊地凛子の像そのものだ。適役かどうかという以前に、その「精細」かつ「ローコンテクスト」な在りようが、村上春樹的な「クール」さを成り立たなくする。また、だからこそ村上春樹はこれまで自作の映画化を頑なに拒んできたのだろう。様式性の高いユン監督にしても、十分に「精細度」を下げることはできなかった(たぶん村上春樹を映画化できるのは、村上がファンだと公言してもいるデヴィッド・リンチである)。

私の結論を言うならば、映画版『ノルウェイの森』の魅力は、「MURAKAMI的」な「ハイコンテクスト性」ではなく、むしろ、「抽象化」を拒む、高精細なディティールのいびつでユーモラスな混在ぶりにある。「生者と死者の往還」を読み込んだり、「メランコリー」に浸ったりということ以上に、そのような混在を即物的に楽しむ見方にこそ、映画版『ノルウェイの森』は開かれているように思われるのだ。

たとえば、日本人俳優がみなどこか「南国風」であるということ。かつて、東南アジアを旅行中の若い芸能人が、現地の理容室に入って髪を切るという一コマを昔、テレビで見たのを覚えている。たしか店の入り口には、七三分けでぴたりと髪を撫でつけられたモデルの写真が飾られていた。やがて整髪されたそのタレントは、ちょうどその七三分けスタイルになって変身し再登場する。それまで旅行者然としていたのに、いきなり現地そのままの「身なり」になってしまったことに、驚きと笑いが起きる。映画『ノルウェイの森』の印象は、これに近い。松山ケンイチや菊地凛子をはじめとする日本の俳優たちが、ヴェトナム系フランス人監督の趣味に従って、「南国風」に組み替えられている。髪型しかり、パンツにタックインしたシャツしかり。70年前後の衿の大きい柄物のシャツは、日本映画にありがちな「あの頃のレトロなスタイル」とはまた違う、亜熱帯のリゾート地を思わせる色使いである。

七三分けとシャツ以上に、この映画を「ヴェトナム風」だと感じさせる要因が、室内に差し込む光線の眩しさである。カメラマンは、監督ホウ・シャオシェンと組んで台湾映画の傑作の数々を世に送り出してきたリー・ピンビン。屋内の光量は抑えられ、外から差し込む光が強い。太陽光線が、地面に反射して室内に柔らかく拡散し、間接的に登場人物の顔を照らす。これは、日本人にとって夏の光線にほかならない。『ノルウェイの森』では、冬の設定でも、しばしば屋内にこの夏の光が差し込んでいるように感じられた。

「1969年」と「2010年」、「日本」と「ヴェトナム」、「日本の冬」と「亜熱帯的な照明設計」。個人的にはここに「松山ケンイチ」と「私」の項を加えたいが、まさに「高精細」であることによって、本来、共存しないはずのものが、ナンセンスに重ね合わされる。それらは抽象的な読み込みの産物ではなく、即物的で偶然的な事実としてそこに在る。期せずしてホット化した『ノルウェイの森』のその鷹揚ないびつさを、私は肯定したい。

三浦哲哉(いわき明星大学)