研究ノート 飯田 賢穂

思考の外部を経験させるテクスト
飯田 賢穂

遅刻をしそうなある人が赤信号を渡ろうとするとき、しばしば、その人は自分自身の行為が悪いことなのかそれとも善いことなのかということを知ろうとします。この人は、おそらく、遅刻をして恥をかきたくない、見ている人が誰もいない、赤信号を渡っても誰の害にもならない、といった様々な論拠を挙げ、功利計算をして赤信号を渡るという行為の正当性を自分に示そうとするかもしれません(無論、このような葛藤を一切持たない人もいるのですが)。とはいえ、この合理的な功利計算の傍らで、その人が良心の呵責を感じていることも事実です。そもそも、この良心の呵責にこそ、功利計算の発端があるとも言えます。そして、この呵責もまた、自分自身に関するある種の認識なのです。

このような自分自身に関する認識は、conscienceと呼ばれます。哲学史の中では、このconscienceは、synoidaといった言葉で、プラトンの対話篇『饗宴』(216b3以下)などに既に見られます。また、アリストテレスも『霊魂論』第3巻(特に第2章以下)で、自分自身が感覚していることを自分自身が感覚するという問題を立てています。このような、広義の自分自身に関する認識(あるいは知覚)としてのconscienceの問題は、パウロの『ローマ人宛書簡』第7章や、同著作に関するアウグスティヌスのある種の実存主義的な注解(「内省的な良心」(K・シュテンダール)の成立)を経て、盛期スコラ哲学の中で、synderesis、conscientia、そしてsensus internusの問題などとして扱われるようになります。これに次ぐ近世では、例えば、スコラ哲学を思想背景に持つデカルトや、彼の継承者マルブランシュなどが、sentimentやsens/sentiment intérieurを、conscienceという言葉でしばしば言い換えています。彼らの関心の一つは、自分の主張の論拠を一先ずどこに置くかという点にあり、デカルトなどの場合、その論拠はconscienceに置かれているとも解せます。そして、私の関心もまた、このようなconscienceが、何らかの思想が理論的なかたちで構築される際に、しばしばその土台ないし出発点となっている場面があるという点にあります。言い換えますと、「私はこれこれのことを確かに知っている」という、「内的な証言」(デカルト『真理の探究』)が、理論を構築する際の基礎にしばしば据えられている点に、私は特に注目しています。

以上のような哲学史やそこに見出せる特徴を問題背景として、私はジャン‐ジャック・ルソーのconscienceを主たる研究対象としています。というのも、彼は、conscienceという言葉を使うことによって、論理的に構築されるべき理論の中に見出されるある種の非論理的な要素へと私たちの目を向けさせようとしているからです(ルソー本人は理論ではなく、むしろ「体系(système)」という言葉を使っていますが)。彼もまたデカルト以来の用語法を継承し、このconscienceをsentiment [intérieur]という言葉でパラフレーズしています。しかし、ルソーのこのような用語法には独特な点が加わっています。それは、理論を構築すべく選ばれた言葉の一つ一つや、それらの組み合わせそれ自体が、sentimentというある種の原理に支配されているということが強調される点です(以下でも触れますが、ルソーの使うsentimentという言葉は、認識活動だけでなく原理をも表します)。

ところで、このようなsentimentの用法から推測されるように、この言葉は、いわゆる「情念(passion)」や「感受性(sensibilité)」といった心の動きや性質のみを表現するものではありません。そもそも、sentimentという言葉は、先ほどの理論批判にも見られるように、ルソーのテクストを読む人々(多くの場合、いわゆる啓蒙主義者たちですが)が論理的であると確信しているものの中にある非論理性を、その人たちに気づかせる一種の概念装置です。ですので、特定の学問的な枠組み(例えば魂論(pshycologia)や存在論(ontologia)といった)とは位相を異にします。しかし、ルソーのsentiment(およびconscience)を、このような枠組みの中で捉えることが困難であるにせよ、それはおそらく次の三つの側面を持つと言えるでしょう(以下の説明は、最も「理論的」と言われる「サヴォアの助任司祭の信仰告白」というルソーのテクストと、その草稿に相当する『道徳書簡』というテクストに基づきます。また以下ではsentimentという言葉を使っていますが、これはconscienceに置き換えることができるものです)。

第一に、直観的な認識(cognitio intuitiva)の側面です。これは、理論を構成する要素であるところの個々の命題(これは「基礎的な真理」ないし「基礎的な概念」などと呼ばれることがあります)に関する認識活動です。無論、ルソー以前の用語法では、lumen naturaleとしての「理性(ratio)」それ自体にこのような認識活動を帰する場合もあります。とはいえ、ルソーは「理性」をむしろ物事を上手く進行させるための計算能力とみなし、この計算能力の指針となる標識を見出す魂の活動をsentimentと見なしています。

このような魂の活動としての側面は、sentimentの第二の側面と結びつきます。すなわち、「理性」が活動する際のいわば地図となる原理(principium)としての側面です。より具体的には、先ほども触れた、理論の構成要素となる個々の命題を立てるとき、どのような命題を立てるべきかが予め規定されてしまっているという状況を表現する際に、sentimentという言葉が使われます(この文脈の中で、ルソーはsentimentを「先入観」や「情念」などと対比させます)。このような命題は、論証によって根拠づけられることなく真と見なされているものですから、信念として説明されることもできるでしょう。これに対して、ルソーのsentimentの用法からは、何に信をおくかという根拠への関心よりもむしろ、理論や命題に対するsentimentの先行性に焦点が当てられていることが分かります。そしてこの先行性が、sentimentの第三の側面を私たちに示します。

その側面とは、修辞に関するものです。この場合の修辞とは、誰かを説得する際に、相手の論理の前提へと働きかける技術のことです。ルソーは、その著作の中で「あなたの心情(cœur)に話したい」といった表現、あるいは「心で起こっていること(ce qui se passe dans le cœur)」へと目を向けるよう促す表現をしばしば使います(これは伝統的には内省(meditation)への促しです)。ルソーの著作の中で、このような表現は、理屈付け(raisonnement)による説得に対置されるものであり、理屈の鎖を構成している要素としての命題の前提を対象とする説得を表しています。この説得の方法は、「心の動き」としてのsentiment(無論、いわゆる良心の「声」が念頭に置かれている場面もあります)を相手に生じさせることであり、この点でsentimentの再現(imitation)とでも呼び得る技術です。これによって、理屈付けがなされている際の自分自身の「心の動き」へと注意を向けることが促され、この注意を契機として相手の主張を覆すことが試みられるのです。

以上のように、sentimentの内実にあえて区別を設けるならば、これら三つの側面を区別することができるでしょう。

ここで注意すべきは、ルソーがsentimentを強調していることを根拠に、彼を単なるsentimentalisteと見なすべきではないということです。むしろ、Y・セイテの言う「覚醒のエクリチュールを実践する人」として、ルソーを理解すべきでしょう。つまり、この「エクリチュール」は、それ自体で充足している思考の連鎖(上ではルソーの言葉も踏まえて理屈付けなどと呼びました)の外部(これは個々の命題の前提と呼ばれていました)を強調することによって、この連鎖の必然性をなくしてしまう行為であると言えます(これは上の三つの側面に通底するものです)。

以上の点を踏まえますと、conscienceに関するルソーのテクストは、その読解を通して、読者に本人の思考の外部を経験させるものであると言えるでしょう。

飯田 賢穂(東京大学)