第4回研究発表集会報告 シンポジウム報告

シンポジウム

2009年11月14日(土) 16:15-18:15
東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルーム1

シンポジウム:都市と映像が交差するところ

【パネリスト】
長谷正人(早稲田大学)
北野圭介(立命館大学)
太田浩史(東京大学生産研究所)

【司会】
門林岳史(関西大学)

シンポジウム「都市と映像が交差するところ」の題名が示す「ところ」とは、「交差」が問題である以上、立体のことであるだろう。都市との関係において映像を語る建築家の太田浩史、ジオラマ論を連載中の長谷正人、身体の厚みを持つ三次元性へと映像体験を押し開こうとする『映像論序説』の著者である北野圭介は、それぞれ平面的スクリーンには還元されない、いわば映像の立体性を思考しようとする姿勢を共有する。その意味で、このシンポジウムは、学会第一回大会の研究発表「スクリーンの近代」の先を見据えようとする試みだったといえるだろう。つまり、平面から立体へ。三人の議論から読み取るべきなのは、いま像を結ぼうとしているポスト・スクリーンの思考にほかならない。

太田浩史が語るのは、都市の様相化によってもたらされる人間と映像の新しい関係についてである。様相化とはつまり、従来のハードな物質機構としての都市が、イメージとして、モニュメントとして、感覚的なニュアンスに富んだ環境として、自らを規定し構築しようとする変化を指す。太田は、自身が進めてきた世界140都市における都市再生の事例研究から、中米の都市メディジンにおける「メトロ・カーブレ」や、ドーハの商業地区バルワのPR映像、ニューキャッスル・ゲイツヘッドにおける住民によるヌーディスト・パレードなどを紹介する。ここでは映像が不可欠な要素であるにも関わらず、一方向的なスペクタクルに対する一様な観衆、という従来の図式は崩れていると太田は指摘する。いまや離散的な観衆たちによる都市の「内面化」の様々な回路へと映像は組み込まれ始めている。

長谷正人は、都市と映画、すなわち立体と平面とが、単純な反映や投射の関係を超えることを、説得的な実例と共に示した。スタジオが機能していた時代の日本映画『赤いハンカチ』『天国と地獄』は、当時の都市の姿を驚くべき克明さで映すが、それは撮影所内に巨大な立体のセットを再現するという迂路によって初めて実現されたものである。また他方で、『珈琲時光』『トウキョウソナタ』は都市の内部でロケーション撮影されたフィルムであるが、すでに存在しない過去やいまだ存在しない未来における都市の姿を透視する。

北野圭介が取り上げるのは、映像への参加体験のアーキテクチャーの展示という、かなり錯綜した例である。1970年代から、映像体験を映画館の闇のなかから抜き出して、美術館やギャラリーで三次元的に展示する試みが繰り返されている。それは、映像体験のダイナミズムを反省的に言説化しようとする装置論と並行して生まれた現象である。両者ともに、新たな資本の形態がもたらした、映像と観客の関係の根本的変容(ビデオとデジタル映像の普及、映画の消費様式の平板化)への批判と抵抗の実践であると北野は考える。

三人の議論を通底するのは、映像への参加とはなにかという問いである。スクリーンが、参加によって自身の身体を消去することの夢としてあったのだとすれば、彼らの分析は、夢を見つつある身体のかさばりを、改めて幾通りもの仕方で可視化する試みであるといえるかもしれない。スクリーンという夢の失墜の日付を、北野は1970年前後に置く。これはたとえば『平面論』を書いた松浦寿輝の見解と矛盾しない。松浦はほぼ1968年を境に、映画がスクリーン・プロセスという極めつけの平面化の装置を失い、それが「表層」と「虚構」をめぐる感性の分水嶺であると示唆した。次にくるのは、周知のようにヴァーチュアル・リアリティと立体的迫真性の時代ということになる。そしてこの新たな深さの幻影を批判するためにこそ、立体的映像論が要請されている。

映像の立体性への思考は、現在進行形の文化状況をフォローしようとするベクトルにのみ収斂するわけではない。それは他方で、スクリーンの成立の条件を探る考古学的考察へ向かい、平面を支えるものとして都市の過去が召還される(長谷のジオラマ論がその好例である)。立体的映像論の建築はおそらくまだ始まったばかりである。望まれるのは、この日にも開通したであろう理論的バイパスの数を、さらに意外なアングルで増殖させていくことである。

三浦哲哉