第5回大会報告 パフォーマンス報告

パフォーマンス

2010年7月3日(土) 16:00-17:00
青山学院アスタジオ地下多目的ホール

【出演】楠美津香

シェイクスピアのテクストは、言語間の翻訳のみならず、映画や音楽などの分野を超えた翻訳を誘発し続けてきた点は改めて確認するまでもない。ミュージカル『ウェスト・サイド・ストーリー』、戯曲『ハムレット・マシーン』、映画『乱』、《ロメオとジュリエット》(ベルリオーズ、チャイコフスキー、プロコフィエフ…)など著名な作品を挙げるだけでも、原作に忠実なものから舞台や時代を移し替えた翻案、またほとんど原形をとどめていないものなどその形も多岐に渉ることが思い起こされる。ただし「翻訳者の使命」におけるベンヤミンの「翻訳はそれ自体よりも高次の言語を予示していることによって、それ自体の内容にぴたりと合うことがなく、暴力的で異質なところを残す」という指摘に端的に示されている通り、翻訳という行為は本質的に暴力を孕む。

表象文化論学会第5回大会第1日目、「現代日本文化のグローバルな交渉」と題されたシンポジウムに続いて行われた楠美津香によるパフォーマンス「Lonely Shakespeare Drama『超訳 間違いの喜劇』」(青山学院スタジオ地下多目的ホール)は、講談風一人芝居とでも呼べる制約に満ちた形式でシェイクスピアの初期作品『間違いの喜劇』を語る=演じるという、翻訳が孕む暴力をあえて自ら引き受ける試みであった。複雑に絡み合う『間違いの喜劇』の双子の取り違えを一人で演じ分け、コンパクトにまとめた約1時間のパフォーマンスは、10年に渉る同シリーズへの馴染み深さを感じさせる常連客から、楠の舞台に初めて接する報告者のような多様な層を含む会場から笑いを引き出した。

冒頭、楠はレトロなBGMに乗って、暴走族を想起させるいでたちで登場し、徐にチョークを手にした彼女は、舞台上の黒板に登場人物の名を殴り書き、アンティフォラスとドローミオという2組の双子が生き別れエフェサスとシラキュースという国で別々に育った物語の顛末を語り始める。詳述は避けるが、犬猿の仲にある「エフェサス / シラキュース」の対立を分かりやすく「関東圏 / 関西圏」と言い換え、エフェサス=関東育ちのアンティフォラス兄には寿司を握らせ、シラキュース=関西育ちのアンティフォラス弟を演じる際にはたこ焼きを焼く身振りを取るという約束事を確認して本筋が開始されると、そのまま一気に最終幕まで物語が語られ=演じられていった。

扇子、舞台上の演壇、舞台後方のカーテン、黒板を除くと、楠の「超訳」の作業を支えたのは嗄れかけた声と汗だくの身体のみであった。常にたこ焼きを焼いているアンティフォラス(弟=関西)のほか、のアンティフォラス(兄=関東)の妻・エドリアーナは常にハンカチを片手に涙声、その妹・ルシアーナは常に化粧に夢中、金細工師・アンジェロは「ジュエリー田中」と言い換えるなど、それぞれの登場人物のメルクマール(バルタン星人の声まねも含む)を誇張する形で、ともすれば混乱しがちな一人芝居による翻訳をスムーズに進行させた。クライマックスの直前で、警官に追われたアンティフォラス(弟=関西)、ドローミオ(弟=関西)がエフェサス(関東)の修道女院に逃げ込むシーンで、修道院主(実は生き別れたアンティフォラス兄弟の母・エミリア)の誇張された京都弁がその出自の相違を示すことで物語の大団円を予告している点などは、関西圏 / 関東圏への対立の移し替えの効果が発揮されたシーンであったと言える。

続く登場人物のほとんどすべてが舞台上に会し2組の双子が鉢合わせする場面は、それまでの進行から生じる予想に違わず、一人ひとりの人物の誇張された口調と身振りを順に示す、という形で取り違えの余地がない極めて分かり易い形で表現された。こうした「分かり易さ」は、「世界で一番分かり易いシェイクスピア」を代名詞とする楠の試みの一種の成功と言える。しかし、登場人物全員を一人が表現するという試みが持つ矛盾を最も強く露呈するはずのクライマックスが、ある種のステレオタイプに寄りかかった人物造型法で登場人物間の差異を誇張することで過度に明瞭となっていたという印象はぬぐえない。結果として、そこで生じた笑いが楠の孤独な翻訳行為に固有のものであるのか、それとも代替可能な個々のキャラクター表現が生みだしている笑いであるのか判別できなくなってしまった。  

むしろ、報告者にとっては、パフォーマンスの進行に従い加速していく目まぐるしい登場人物の交代が、時に演者である楠すらも混乱させていた点が注目された。そしてその「取り違え」を楠が舞台上で告白することが笑いを生み出していた箇所は、この超訳作業のアイデア自体が持つ皮肉に満ちたナンセンスさをメタなレベルで顕在化させると同時に、あえてその作業を引き受けた楠の大胆さをも露呈させた瞬間であった。翻訳者の「取り違え(Errors)」が生む笑い―、これこそが「分かり易さ」のみには還元されない、『間違いの喜劇(Comedy of Errors)』を孤独に超訳する試みが孕む暴力と魅力を垣間見せたのではないだろうか。

白井史人(東京大学)